はじめに――ラシッド・タハを「ワールドミュージック」と呼ぶだけでは足りない
文:mmr|テーマ:アルジェリアとフランス、ライとパンク、伝統とテクノ。その境界を壊し続けたラシッド・タハの音楽から、移民文化が世界の音楽を変えた仕組みを読み解く
ラシッド・タハを紹介するとき、最も簡単なのは「アルジェリア音楽とロックを融合させた歌手」と説明することだろう。
実際、その説明は間違っていない。
彼の音楽にはアルジェリアのシャアビ、ライ、フランスのシャンソン、パンク、ロック、ファンク、ヒップホップ、テクノ、エレクトロニック・ミュージックなど、さまざまな要素が入っている。
しかし、この説明だけではタハという音楽家の面白さはほとんど伝わらない。
なぜなら彼は、異なる音楽を「融合」することそのものを目的にしていたわけではないからだ。
彼にとって音楽は、最初から複数の場所に存在していた。
アルジェリアで生まれ、10歳のときに家族とフランスへ移住し、アルザスを経てリヨンで生活した。若いころには暖房設備の工場で働きながら、夜には北アフリカ系コミュニティのためにDJをしていた。そこでアラブ音楽だけではなく、ファンク、ラップ、サルサなどもプレイしていたという。
つまり、彼にとって「異なる音楽を混ぜる」という行為は、後から考えたコンセプトではなかった。
それは生活そのものだった。
アルジェリアの音楽を聴きながらフランスで暮らす。
フランスの社会の中で、アルジェリア系移民として生きる。
パンクを聴きながら、アラブの歌を歌う。
クラブでテクノを聴きながら、古いライのメロディを歌う。
この矛盾を解決するのではなく、そのまま音楽にした。
そこにラシッド・タハの核心がある。
ラシッド・タハの音楽は、異文化を「融合」した音楽というより、最初から融合してしまっていた人生を、そのまま音に変えた音楽だった。
1958年――アルジェリアで生まれた少年
ラシッド・タハは1958年9月18日、アルジェリア北西部のシグで生まれた。
当時のアルジェリアはフランスの統治下にあった。
彼が生まれた1958年は、アルジェリア戦争の最中でもあった。
そして1962年、アルジェリアは独立する。
タハの幼少期は、この歴史的転換期と重なっている。
10歳のころ、父親が仕事を求めてフランスへ移った。その後、家族もフランスへ移住する。最初の生活圏はアルザス、その後リヨンへと移っていった。
この移動は、後のタハの音楽を理解するうえで重要だ。
彼は「アルジェリア人としてフランスに来た人」でもあり、「フランスで成長したアルジェリア系の若者」でもあった。
この二つは似ているようで、まったく同じではない。
故郷を知っている。
しかし、人生の中心は別の場所にある。
言葉も文化も複数ある。
そして、どこか一つだけを選ぶ必要もない。
後にタハが作る音楽は、この状態をそのまま反映していく。
彼はアルジェリア音楽をフランスに持ってきただけではない。
フランスで出会った音楽もアルジェリア音楽の中へ持ち込んだ。
そこには、移民文化が持つ独特の編集能力がある。
故郷の音楽を保存するだけではなく、新しい環境で使えるように変形する。
タハの音楽は、そのプロセスの一つの完成形だった。
移民にとって音楽は、故郷を保存する箱ではなく、二つ以上の場所を同時に生きるための道具にもなる。
リヨン――工場とクラブのあいだ
17歳のころ、タハはリヨン郊外の暖房設備工場で働いていた。
本人はその仕事を好んでいなかったという。
しかし、夜になると別の世界が始まった。
彼はDJとして活動し、北アフリカ系コミュニティのために音楽を流した。
そこで扱っていたのはアラブ音楽だけではなかった。
ファンク、ラップ、サルサなども選曲していた。
ここで重要なのは、彼が「ワールドミュージック」というカテゴリーを意識していたわけではないことだ。
クラブでは、音楽はジャンルごとに棚に並んでいない。
踊れるか。
盛り上がるか。
声が届くか。
身体が反応するか。
その瞬間に機能するか。
DJにとって重要なのは、こうした実際的な問題だった。
タハはそこで音楽をジャンルではなく、現場で経験した。
そして、その経験が後の作品に残った。
彼の音楽には、ロックのギターがあってもロックだけにはならない。
電子音があってもテクノだけにはならない。
ライの旋律があっても伝統音楽の再現だけにはならない。
すべてが、踊るための身体と結びついている。
この感覚は、後の「Ya Rayah」や「Barra Barra」、そして「Made in Medina」などにも通じていく。
パンクとの出会い――「怒り」は国境を越える
タハの音楽的形成において、The Clashの存在は大きかった。
彼はThe ClashやLinton Kwesi Johnsonから影響を受け、詩や政治的な歌を書き始めた。フランス移民史を扱う資料でも、Elvis PresleyやOum Kalthoum、The Clash、James Brown、Johnny Cash、Kurt Cobain、Cheikha Rimitti、Georges Brassensなど、極めて幅広い音楽家から影響を受けていたことが紹介されている。
ここでThe Clashが重要なのは、単に音楽性の問題ではない。
The Clashのパンクは、社会や政治とポップミュージックを切り離さなかった。
タハもまた、音楽を社会から離れた娯楽として考えなかった。
移民。
労働。
差別。
都市。
アイデンティティ。
政治。
こうしたテーマは、後の彼の作品に繰り返し登場する。
だからタハがパンクを受け入れたことは自然だった。
アルジェリアの伝統音楽とパンクは、音楽的には遠く見える。
しかし、社会的なエネルギーという意味では接点がある。
どちらも、既存の秩序に対して声を上げる音楽になり得る。
タハはその接点を見つけた。
そして、それをギターやドラムだけでなく、ライの旋律やアラビア語の歌唱にも接続した。
タハがパンクから受け取った最大のものは音色ではなく、「自分の場所から声を上げていい」という態度だった。
1980年――Carte de Séjourという実験
1980年、タハはリヨンでCarte de Séjourを結成した。
フランス語で「滞在許可証」を意味する名前だった。
このバンド名そのものが、すでに政治的だった。
移民にとって「滞在許可証」は抽象的な言葉ではない。
それは国家によって発行される紙であり、そこに自分の存在が記録される。
つまり、バンド名がすでにアイデンティティの問題を含んでいた。
Carte de Séjourは、アラビア語の歌とパンクのエネルギーを結びつけ、移民の労働条件やフランス社会における扱いなどをテーマにした。
ここでタハは、単純に「アルジェリア音楽をロック化」したわけではない。
むしろ、フランスのロック/パンクという表現形式を、アルジェリア系移民が自分自身について語るために使った。
これは非常に重要な違いだ。
音楽を借りたのではない。
言語を交換したのである。
フランスの若者文化から生まれたパンクを、アルジェリア系移民の経験を語るために使う。
一方で、アルジェリアの歌唱やリズムをフランスの音楽空間へ持ち込む。
そこでは、文化は一方向に流れていない。
双方向に流れている。
この構造は、後のタハのソロ活動にもそのまま引き継がれる。
「Douce France」――国歌ではなく、問いかけとしてのシャンソン
Carte de Séjourの代表的な作品の一つが「Douce France」だった。
これはフランスのシャンソン歌手シャルル・トレネの曲を取り上げたものだ。
1986年、Carte de Séjourによる「Douce France」が発表され、大きな議論を呼んだ。
この選曲が面白い。
「Douce France」はフランスを懐かしく歌う曲として知られている。
そこへ、アルジェリア系移民の若者たちが入ってくる。
同じフランスを歌っている。
しかし、立っている場所が違う。
この違いによって、同じ曲の意味が変わる。
タハたちはフランス文化を拒絶したわけではない。
むしろ、その文化の中へ自分たちの声を入れた。
「あなたたちのフランス」と「私たちのフランス」は同じなのか。
その問いを、カバーという形で提示した。
これは後にタハが繰り返す方法でもある。
既存の曲をそのまま再現するのではない。
知っている曲を別の身体に通す。
すると、曲そのものは同じでも意味が変わる。
タハのカバーには、この「意味の移動」がある。
「Douce France」は、フランスを歌った曲をアルジェリア系移民が歌うことで、誰が「フランス」を語るのかという問いへ変わった。
1980年代後半――Carte de Séjourからソロへ
Carte de Séjourは1980年代に活動し、「Rhorhomanie」「2½」「Ramsa」などの作品を残した。
そしてタハは1980年代末からソロ活動へ移行していく。
ソロとして最初のアルバム「Barbès」は1990年に発表された。資料によってソロ活動開始時期の表記には多少の違いがあるが、1990年代初頭から彼のソロ・キャリアが本格化したことは確認できる。
ここからタハの音楽は、さらに自由になる。
バンドという枠を離れたことで、彼は自分の音楽的な過去を再編集できるようになった。
アルジェリア。
フランス。
パンク。
ライ。
ロック。
電子音。
クラブ。
そして古い歌。
これらを一つの方向へ整理するのではなく、作品ごとに組み替えていく。
「Barbès」はその新しいスタート地点だった。
1990年代――「ワールドミュージック」という棚からはみ出す
1990年代、ヨーロッパでは「ワールドミュージック」というカテゴリーが広がっていった。
非西洋圏の音楽を欧米市場へ紹介するための重要な枠組みだった一方、そこには一つの問題もあった。
音楽が地域別に分類されやすいことだ。
アフリカ。
中東。
アジア。
ラテン。
ヨーロッパ。
しかしタハは、この分類に収まりにくかった。
彼はアルジェリア人だが、フランスで活動する。
ライを歌うが、パンクを愛している。
アラビア語を歌うが、フランスの社会問題を扱う。
電子音を使うが、古い歌を取り上げる。
このため彼の音楽は、「伝統音楽を西洋のポップに混ぜた」という説明だけでは足りなくなっていく。
1993年にはセルフタイトルの「Rachid Taha」、1995年には「Olé, Olé」を発表した。
この時期のタハは、すでに単純なジャンル融合を超えていた。
彼が作っていたのは、音楽ジャンルの国際化ではなく、自分自身の音楽環境の国際化だった。
1998年――「Diwân」で過去を未来へ送る
1998年の「Diwân」は、タハのキャリアを語るうえで特に重要な作品だ。
このアルバムでは、アルジェリアを含む北アフリカの古いレパートリーに再び向き合った。
「Ya Rayah」などによって、彼は古い歌を新しい世代へ届けた。
しかし、ここでもタハは「伝統を守る」だけではなかった。
伝統的な曲を、現代的な録音とアレンジの中に置く。
過去のメロディを現在の身体で歌う。
それによって古い曲が「博物館の音楽」ではなくなる。
ここがタハの強さだった。
彼は伝統を凍結しない。
動かす。
そして、動かすことで生き残らせる。
「Diwân」はフランスのチャートでも成功し、1998年の作品として記録されている。
「Ya Rayah」は1997年のシングルとしてフランスでチャート入りし、タハを代表する楽曲の一つになった。
この曲が象徴的なのは、古いライの歌を現代のポップ・ミュージックとして再提示したことにある。
タハは「昔の曲を復活させた」のではない。
昔の曲が、まだ現在について何かを語れることを示した。
伝統を現代化するとは、古い音を新しくすることではない。古い音が、いまでも生きていることを証明することだ。
1998年――Khaled、Faudel、そして「1,2,3 Soleils」
同じ1998年、タハはKhaled、Faudelとともに「1,2,3 Soleils」を制作した。
3人のライ歌手が並ぶこのプロジェクトは、フランスにおけるライの存在感を大きく高めた。
アルバムには「Abdel Kader」「Didi」「Ya Rayah」などが収録されている。
ここでタハは一人の異端児ではなく、北アフリカ系音楽をフランスの大衆文化の中心へ押し出す側に立った。
特に「Abdel Kader」はタハ、Khaled、Faudelの3人による楽曲として広く知られるようになった。
ライはもはや「移民コミュニティだけの音楽」ではない。
フランスの巨大な観客の前で歌われる音楽になる。
この変化には、タハの存在が大きく関わっていた。
彼はライを純粋な伝統音楽として提示しなかった。
ロックやパンクの感覚を持った人物としてライを歌った。
そのため、ライは「昔のアルジェリア音楽」ではなく、現在進行形のポップカルチャーとして響いた。
「Ya Rayah」が示したもの――移動の歌は移民の時代に強くなる
「Ya Rayah」は、移動する人間についての歌だ。
旅立つ者。
故郷を離れる者。
どこかへ向かう者。
このテーマはタハ自身の人生と重なる。
アルジェリアからフランスへ移った。
フランスで生活しながらアルジェリアの音楽を歌った。
そして、その音楽を再び世界へ持っていく。
「Ya Rayah」が多くの人に届いた背景には、曲そのものの強さだけではなく、タハが生きてきた場所との一致があった。
移動は彼にとって抽象的なテーマではない。
人生だった。
だから彼が歌う「移動」は、単なる旅の歌として終わらない。
移民。
離散。
郷愁。
再出発。
都市。
帰属。
そうした問題と結びついていく。
そして、現代のグローバル音楽において、このテーマは非常に強い。
人が移動する。
仕事を求めて移動する。
家族と移動する。
戦争や政治によって移動する。
文化も一緒に移動する。
タハの音楽は、この「人間と音楽の移動」を同時に記録している。
2000年――「Made in Medina」とSteve Hillage
2000年の「Made in Medina」は、タハの音楽的な方向性をさらに押し広げた作品だった。
アルバムはBarclayから発表され、Steve Hillageがプロデュースとアレンジを担当した。収録曲には「Barra Barra」「Foqt Foqt」「Made in Medina」「Hey Anta」などが含まれている。
Steve Hillageとの組み合わせは象徴的だった。
Hillageはプログレッシブ・ロックやエレクトロニック・ミュージック、アンビエント、ダンス・ミュージックなどを横断して活動してきた音楽家だ。
そこへタハのライ、シャアビ、ロック、パンクの感覚が重なる。
結果として「Made in Medina」は、単なる「アラブ音楽+西洋音楽」ではないサウンドになった。
リズムは踊れる。
声は強い。
電子的な処理がある。
ギターやロックの質感もある。
しかし中心には北アフリカの音楽的感覚が残っている。
このアルバムは、タハの音楽が「世界の音楽を一つにする」方向ではなく、「複数の音楽が同時に存在する状態」を作っていたことを示している。
「Made in Medina」は、ジャンルを混ぜる作品というより、ジャンルを一つの空間に住まわせる作品だった。
「Barra Barra」――戦争映画の中へ入ったタハ
「Made in Medina」の収録曲「Barra Barra」は、タハの代表的な楽曲の一つになった。
この曲は後に映画「ブラックホーク・ダウン」で使用され、タハの音楽をより広い国際的な観客へ届けることになった。
ここには、タハの音楽が持つ奇妙な性質がある。
歌詞の背景や文化的文脈を知らなくても、声とリズムが強烈に残る。
言葉を理解できなくても身体が反応する。
これは世界音楽にとって重要な能力だった。
「翻訳しなくても伝わる」ということだ。
ただし、それは「意味がなくなる」ということではない。
むしろ逆だ。
意味を完全には理解できなくても、音のエネルギーが先に届く。
そして、その後で人は「この歌は何を歌っているのか」と知りたくなる。
タハはこの順番を自然に作っていた。
音楽が先に身体へ入り、その後に文化的背景がついてくる。
2004年――「Tékitoi」とRock the Casbah
2004年、タハは「Tékitoi」を発表した。
この作品を象徴するのが、The Clashの「Rock the Casbah」を再解釈した「Rock El Casbah」だ。
タハとThe Clashの関係は1980年代から続いていた。
若いころにThe Clashから強い影響を受けたタハが、後年になってその曲を自分の音楽として歌う。
これは単純なカバーではない。
The Clashの曲を、北アフリカ出身の移民であるタハが歌う。
その瞬間、「Rock the Casbah」という言葉は別の歴史的背景を帯びる。
タハはThe Clashの影響を隠さなかった。
むしろ、自分の音楽史の一部として引き受けた。
そして、その曲を自分の声とアクセントとリズムに通した。
だから「Rock El Casbah」は、The Clashのコピーではない。
The Clashをタハの人生の中へ移植した結果だ。
ここには彼の音楽哲学がよく表れている。
好きな音楽を守るために、原型のまま保存する必要はない。
自分の人生を通せばいい。
自分の文化を通せばいい。
自分の時代へ移せばいい。
タハにとってカバーとは、過去への敬意ではなく、過去を現在の自分に引き寄せる行為だった。
2000年代――クラブとロックと北アフリカ
2000年代のタハは、世界各地でライブを行いながら活動を続けた。
「Made in Medina」「Tékitoi」「Diwan 2」「Bonjour」「Zoom」へと作品を重ねるにつれ、彼の音楽はますますジャンルを横断するようになった。
この時期のタハを理解するうえで、ライブは非常に重要だ。
彼は録音だけで評価されるタイプの音楽家ではなかった。
ステージでは、ロック・シンガーのような身体性を見せた。
2002年のRoyal Festival Hall公演については、黒い服で登場し、マイクに身体を寄せながら歌い、途中で膝をつくような激しいパフォーマンスが記録されている。
ここには、ライ歌手とパンク・フロントマンが同時に存在している。
声だけではない。
身体全体で音楽を演奏する。
これは彼の音楽を「ワールドミュージック」という静的なカテゴリーから引き離した。
タハのステージは、民族音楽の紹介イベントではない。
ロック・ショーだった。
しかし、そこで歌われるのは北アフリカの歌だった。
この組み合わせが、彼の独自性だった。
Africa Express――音楽家同士が国境を越える
2007年、Glastonbury FestivalでAfrica Expressの最初の大規模なショーが行われた。
Africa ExpressはDamon Albarnらによって始められたプロジェクトで、アフリカと欧米の音楽家が共同演奏する場として展開した。
タハは最初期からこの活動に参加し、その後も複数のAfrica Expressイベントに出演した。
この活動は、タハの音楽観とよく合っていた。
なぜなら、Africa Expressには「誰かが誰かの音楽を紹介する」という構図だけではなく、音楽家同士が同じステージで演奏するという構造があったからだ。
音楽文化は展示物ではない。
一緒に演奏する。
音を出す。
間違える。
反応する。
即興する。
そこで新しい音楽が生まれる。
タハはこの環境に自然に適応した。
彼はもともと複数の音楽文化を行き来してきた。
だから、文化と文化の境界に立つこと自体が彼の得意分野だった。
Damon Albarnは後にタハをAfrica Expressの中心的存在の一人として振り返っている。
タハの政治性――怒鳴るのではなく、同じステージに立つ
タハは政治的な音楽家だった。
しかし、彼の政治性は単純なスローガンだけではない。
彼の最も強い政治的メッセージの一つは、「誰と一緒に演奏するか」にあった。
アラブ人とヨーロッパ人。
北アフリカの音楽家とロック・ミュージシャン。
移民とフランス社会。
伝統と電子音楽。
異なる背景を持つ人間が同じ音楽を演奏する。
これは、政治的な歌詞を書くこととは別の種類のメッセージだ。
Royal Festival Hallでのパフォーマンス後、タハは政治について話す際、「黒人と白人、同じ。アラブ人とユダヤ人、同じ」という趣旨の発言をしていたと報じられている。
ここで重要なのは、彼が音楽を「政治から逃げる場所」にしなかったことだ。
しかし同時に、政治だけの音楽にもしていない。
踊れる。
笑える。
怒れる。
歌える。
そして考えられる。
この複数の機能が同時に存在する。
それがタハだった。
伝統と反抗は、本当に反対なのか
タハの音楽を聴くと、一つの奇妙なことに気づく。
伝統的な音楽とパンクが、意外なほど自然につながっている。
普通なら、伝統は保守的で、パンクは反抗的だと考えたくなる。
しかしタハの音楽では、この二つが対立しない。
なぜなら、伝統音楽もまた、その時代には新しい音楽だったからだ。
ライもシャアビも、誰かが生きている時代の音楽として存在してきた。
つまり「伝統」とは、もともと固定されたものではない。
時間が経った結果、伝統と呼ばれるようになっただけだ。
タハはその事実を直感的に理解していた。
だから古い曲を新しいビートに乗せることができた。
それは伝統への裏切りではない。
むしろ、伝統が生き続けるための方法だった。
彼の歌声――きれいではなく、強い
タハの歌声には、クラシックな意味での「美声」という言葉が必ずしも似合わない。
しかし、それが重要だった。
彼の声にはざらつきがある。
怒りがある。
疲労感がある。
笑いもある。
そして、身体的な存在感がある。
彼の歌は、音程を正確に並べることだけを目的にしていない。
声そのものがリズムになる。
特にライやシャアビの旋律を歌うとき、その声は単なるメロディの運搬手段ではなく、音楽全体の中心になる。
パンクの影響も、ここに表れている。
「上手に歌う」よりも、「届くように歌う」。
「美しく歌う」よりも、「自分の声で歌う」。
この違いが、タハをロック・シンガーとしても成立させた。
彼の歌声には、移民としての人生と、クラブでDJをしていた経験と、パンクから受け取った反抗心と、北アフリカの歌唱文化が同時に入っている。
2006年――「Diwan 2」
2006年、タハは「Diwan 2」を発表した。
これは1998年の「Diwân」に続いて、北アフリカの古いレパートリーを再び取り上げた作品だった。
ここで興味深いのは、タハが一度「伝統を現代化」した後、さらに伝統へ戻っていることだ。
普通なら、アーティストは過去を捨てて新しい音を追いかける。
タハは違った。
新しい音を作ったあと、古い曲へ戻る。
そして古い曲を、また現在の音として鳴らす。
この往復運動こそ、彼のキャリアの特徴だった。
前へ進む。
戻る。
また進む。
過去と未来を直線で結ばない。
むしろ円環のように行き来する。
「Bonjour」――キャリア後半の自由
2009年には「Bonjour」を発表した。
この作品ではGaëtan Rousselとの共同作業も行われた。
ここでもタハは、特定の音楽的アイデンティティに閉じこもらなかった。
すでに彼は「ライの歌手」として十分な成功を得ていた。
それでも、その肩書きに留まらなかった。
これはタハのキャリアを考えるうえで重要だ。
彼は「自分は何者なのか」を一つのジャンルで固定しなかった。
ライ歌手。
ロック歌手。
パンク歌手。
フランスのシンガー。
アルジェリア人。
移民。
世界音楽のアーティスト。
そのどれか一つだけではない。
すべてが重なっている。
そして、時期によって前面に出る要素が変わる。
だから彼のディスコグラフィーには、一貫性がありながら、同じ作品が続く感じがない。
2013年――「Zoom」
2013年、タハは「Zoom」を発表した。
これが生前最後のスタジオ・アルバムとなった。
この時期になっても、彼の音楽的な探索は止まらなかった。
キャリア初期から一貫していたのは、ジャンルを守ることではなく、ジャンルの間を移動することだった。
そして、その移動そのものが彼のアイデンティティになった。
これは現代の音楽家にとって非常に重要な示唆を持つ。
「自分らしい音」を作ろうとすると、多くの人は一つのサウンドを固定する。
タハは逆だった。
変化することそのものが、自分らしさになった。
2016年――フランス音楽界からの評価
2016年、タハはフランスのVictoire de la Musiqueで功労賞を受賞した。
これは彼のキャリアにおける大きな節目だった。
かつて移民としてフランス社会に入り、Carte de Séjourという名前で活動した青年が、フランスの音楽界から長年の活動を評価された。
ここには一つの歴史的な変化が見える。
最初は「異質な存在」と見られたものが、時間をかけてフランス音楽そのものの一部になっていく。
つまりタハは、フランス音楽へ「外から影響を与えた人」だけではない。
彼自身がフランス音楽史の一部になった。
2018年――最後まで音楽を作り続けた
ラシッド・タハは2018年9月12日、パリ近郊のレ・リラで心臓発作により亡くなった。
59歳だった。
数年間、筋ジストロフィーの一種を患っていたが、活動を続けていた。
亡くなる前には新しいアルバムの録音を終えており、その作品は2019年に「Je suis Africain」として発表された。
つまり、タハの最後の時期にも、音楽を作ることは続いていた。
「Je suis Africain」というタイトルも象徴的だ。
彼はアルジェリア人だった。
フランスで生きた。
アフリカの音楽を歌った。
ヨーロッパの音楽を吸収した。
世界中で演奏した。
最後まで、自分を一つのカテゴリーへ閉じ込めなかった。
年表――ラシッド・タハの音楽史
ラシッド・タハの音楽を構成した六つの要素
タハの音楽を一つのジャンルとして説明するのは難しい。
しかし、彼の音楽を作った環境を分解すると、いくつかの重要な要素が見えてくる。
アルジェリア
幼少期から聴いていた音楽の基礎。
シャアビ
北アフリカの都市文化と結びついた歌の伝統。
ライ
アルジェリアのポピュラー音楽としての強い歌唱とリズム。
パンクとロック
The Clashなどから受け取った反抗的な姿勢。
電子音楽
1990年代以降の現代的なサウンド環境。
フランスの都市文化
移民、クラブ、労働、言語、社会問題が交差する生活環境。
これらは順番に足されたものではない。
タハの人生の中ですでに同時に存在していた。
タハのサウンドは「六つのジャンルの融合」ではなく、「六つの生活環境が一人の人間の中で同時に鳴っていた結果」だった。
なぜタハの音楽は「ワールドミュージック」だけでは説明できないのか
「ワールドミュージック」という言葉は便利だ。
しかし、タハをそこへ押し込むと、重要な部分が消えてしまう。
それは彼が「世界の音楽を紹介する人」ではなかったということだ。
彼自身が世界の複数の場所を生きていた。
これは大きな違いである。
たとえば、あるヨーロッパのミュージシャンがライを取り入れた場合、「ライの影響を受けた西洋音楽」と説明できる。
しかしタハの場合、ライは外部から輸入した要素ではない。
自分の文化の一部だった。
同時に、パンクも外部から借りたものではない。
若いころのフランスで吸収した、自分の世代の音楽だった。
だから彼の音楽には「異文化融合」の人工的な感じが少ない。
それぞれの音が自然に隣り合っている。
この自然さが、タハの最大の強みだった。
音楽史の中で見たタハ――「第三の場所」の音楽
タハを音楽史の中に置くと、彼はある意味で「第三の場所」を作った人物だった。
アルジェリアだけではない。
フランスだけでもない。
その中間に、新しい音楽空間を作った。
そこには移民文化がある。
都市文化がある。
クラブ文化がある。
ロックがある。
ライがある。
パンクがある。
そして、古い歌を新しい音で聴き直すという発想がある。
この「第三の場所」は、国籍だけでは説明できない。
現代の都市では、多くの人間が同じような状況にいる。
親の文化と、自分が育った社会の文化が違う。
家庭では別の言語を使い、学校では別の言語を使う。
家では伝統音楽を聴き、外ではヒップホップを聴く。
スマートフォンでは韓国のポップスを聴き、クラブではベルリンのテクノを聴く。
タハが先に経験していたのは、こうした文化的混成だった。
「アイデンティティを探す」のではなく、アイデンティティを作る
タハについて語るとき、「彼は自分のアイデンティティを探した」と説明したくなる。
しかし、それも少し違う。
彼は一つのアイデンティティを探していたのではない。
音楽を作りながら、自分のアイデンティティそのものを作っていった。
アルジェリア人。
フランス人。
移民。
ロッカー。
ライ歌手。
DJ。
作曲家。
政治的なアーティスト。
それぞれを排除せずに残した。
だからタハの作品には、「私は何者なのか」という問いと同時に、「私は複数のものになってもいい」という答えがある。
これは現代において非常に重要なメッセージだ。
グローバル化すると、人間の文化は均一になると思われがちだ。
しかし実際には逆のことが起きる。
複数の文化を持つ人間が増える。
そして、その複数性が新しい文化を作る。
タハはその先駆的な例だった。
タハとクラブ文化――伝統音楽は踊れるのか
タハの音楽には、非常に強い「身体性」がある。
これはDJとしての経験と無関係ではない。
クラブで音楽を流していた人間にとって、リズムは理論ではなく身体で判断するものだ。
どこで踊るか。
どこで止まるか。
どこで声を入れるか。
どこで低音を強くするか。
タハの作品には、こうしたクラブ的な感覚がある。
そのため、伝統的なメロディを扱っていても、音楽が古く聞こえにくい。
メロディが過去に属していても、リズムは現在に属する。
この二つが同時に鳴る。
それが「Diwân」以降の重要な特徴だった。
タハとThe Clash――影響を受けることはコピーではない
タハとThe Clashの関係は、音楽的影響の一つの理想的な例でもある。
The Clashから影響を受ける。
しかしThe Clashそのものになるわけではない。
The Clashの政治性を受け取る。
しかし、自分自身の問題を歌う。
The Clashの曲をカバーする。
しかし、自分の声で歌う。
つまり、影響とは「似ること」ではない。
影響とは、他人から受け取ったものを自分の人生の中で再構成することだ。
タハはこの方法を何度も使った。
古いアルジェリアの曲を再構成する。
フランスのシャンソンを再構成する。
The Clashを再構成する。
伝統を再構成する。
ロックを再構成する。
そして、その結果として「Rachid Taha」という音が生まれる。
カバーという芸術――他人の曲を自分の歴史にする
タハの代表曲にはカバーや再解釈が多い。
しかし、そこには一つの共通点がある。
彼は曲を「借りる」のではなく、「移動させる」。
「Douce France」をアルジェリア系移民の声へ移動させる。
「Rock the Casbah」を北アフリカ系ロックの文脈へ移動させる。
「Ya Rayah」のような既存のレパートリーを、現代の録音環境へ移動させる。
この「移動」がタハの芸術の中心にある。
音楽は固定されたものではない。
誰かが歌う。
別の誰かが歌う。
別の場所で歌う。
別の時代に歌う。
すると意味が変わる。
だからカバーは二次創作ではない。
音楽史を更新する方法にもなる。
「Je suis Africain」――最後のメッセージ
2019年に発表された「Je suis Africain」は、タハの死後にリリースされた作品だった。彼は亡くなる前に録音を終えていた。
このタイトルは、彼のキャリア全体を振り返るうえで象徴的だ。
彼はアルジェリアからフランスへ移った。
フランスで音楽を作った。
アラビア語を歌った。
フランスの社会について歌った。
The Clashを歌った。
アフリカの音楽家と演奏した。
ヨーロッパのフェスティバルに出演した。
そして最後に「Je suis Africain」という言葉を残した。
ここには、単純な国籍の話以上のものがある。
アフリカを一つの音楽ジャンルとしてではなく、自分の歴史として捉える。
フランスと対立するのではなく、フランスで生きた経験も自分の一部として残す。
複数の文化を持つことを矛盾にしない。
これがタハの人生だった。
ラシッド・タハが現代音楽に残したもの
タハの最大の功績を一つだけ選ぶなら、「融合」という言葉では足りない。
彼が残したものは、音楽の境界そのものを疑う姿勢だった。
ライだからライだけをやる必要はない。
アルジェリア人だからアルジェリア音楽だけをやる必要はない。
フランスで暮らしているからフランス語だけで歌う必要もない。
ロックが好きだからロックだけをやる必要もない。
伝統を大切にするから、新しい音を拒否する必要もない。
その逆も同じだ。
新しい音を作るからといって、過去を捨てる必要はない。
タハは、この両方を同時に成立させた。
だから彼の音楽は、1990年代や2000年代の作品でありながら、現在でも古くなりにくい。
彼が扱っていた問題が、いまも続いているからだ。
移民。
文化的アイデンティティ。
国境。
都市。
クラブ。
政治。
伝統。
グローバル化。
これらはすべて現在進行形の問題だ。
なぜ今、ラシッド・タハを聴くべきなのか
タハの音楽を2026年に聴くと、奇妙なほど現在的に聞こえる。
理由は単純だ。
今日の音楽環境では、ジャンルの境界がさらに薄くなっている。
アフリカのリズムとヨーロッパの電子音楽。
アラブの歌唱とヒップホップ。
ラテン音楽とテクノ。
アジアのポップスとオルタナティブ・ロック。
異なる文化が同時に鳴ることは珍しくない。
しかし、タハはその状況を数十年前から生きていた。
彼はインターネット以前の時代に、文化のネットワークを自分の身体で経験していた。
アルジェリア。
フランス。
リヨン。
パリ。
クラブ。
フェスティバル。
世界ツアー。
そして、レコード。
現在の音楽文化がネットワーク化される前に、彼はすでにネットワークそのものだった。
タハの音楽が古く聞こえないのは、未来を予言したからではない。彼が、すでに未来のような生活をしていたからだ。
ラシッド・タハという「音楽的翻訳者」
タハを一言で表すなら、「翻訳者」という言葉が近い。
ただし、言語を翻訳するだけではない。
文化を翻訳する。
世代を翻訳する。
都市を翻訳する。
記憶を翻訳する。
彼はアルジェリアの音楽をフランスの観客へ届けた。
しかし、その際にアルジェリア音楽をそのまま保存したわけではない。
フランスのロックをアルジェリア系の身体へ通した。
The Clashを歌い直した。
古いライを現代のビートに置いた。
フランスのシャンソンを移民の視点から歌った。
つまり、彼の音楽は常に「AをBへ運ぶ」作業だった。
しかし、運んだ先ではAのままではない。
少し変わる。
そしてBも変わる。
この相互作用が、タハの音楽を作った。
音楽史の地図を描き直す
ラシッド・タハのキャリアを一直線に見ると、
アルジェリア生まれ。
フランス移住。
Carte de Séjour。
ソロ。
ライ。
ロック。
世界音楽。
という流れに見える。
しかし、本当はもっと複雑だ。
この図が示しているのは、「影響関係」だけではない。
タハの音楽は、移動そのものから生まれている。
だから、彼の音楽史を理解するには、ジャンルの系譜だけでは足りない。
人間の移動を見る必要がある。
ラシッド・タハのディスコグラフィー
Carte de Séjour
| 年 | 作品 |
|---|---|
| 1983 | Carte de Séjour |
| 1984 | Rhorhomanie |
| 1986 | 2½ / Deux Et Demi |
| 1987 | Ramsa |
ソロ・アルバム
| 年 | 作品 |
|---|---|
| 1990 | Barbès |
| 1993 | Rachid Taha |
| 1995 | Olé, Olé |
| 1998 | Diwân |
| 2000 | Made in Medina |
| 2004 | Tékitoi |
| 2006 | Diwan 2 |
| 2009 | Bonjour |
| 2013 | Zoom |
| 2019 | Je suis Africain |
ソロ作品の主要なリリース年はMusicBrainzのディスコグラフィーや複数の資料で確認できる。
共同プロジェクト
| 年 | 作品 |
|---|---|
| 1998 | 1,2,3 Soleils |
| 2001 | Live |
| 2007以降 | Africa Express関連活動 |
「1,2,3 Soleils」はKhaled、Faudel、Rachid Tahaによる共同プロジェクトとして1998年に展開し、「Abdel Kader」「Didi」「Ya Rayah」などを収録した。
代表曲から見るタハの音楽的変化
| 楽曲 | 時期 | 意味 |
|---|---|---|
| Douce France | 1986 | フランス文化を移民の側から読み替える |
| Ya Rayah | 1990年代 | 移動と郷愁を現代へ持ち込む |
| Abdel Kader | 1998 | ライを大規模な共同パフォーマンスへ |
| Barra Barra | 2000 | 北アフリカ音楽と世界的ポップ文化の接続 |
| Rock El Casbah | 2004 | The Clashを自分の歴史へ再配置 |
| Je suis Africain | 2019 | 死後に完成した最後のアルバム |
こうして並べると、タハの作品には一つのパターンが見える。
彼はいつも「境界線の上」にいる。
フランスとアルジェリア。
伝統と現代。
ロックとライ。
政治とエンターテインメント。
ローカルとグローバル。
そして、その境界線を消すのではなく、その上で音楽を作る。
結論――ラシッド・タハは「融合の人」ではなく「境界の人」だった
ラシッド・タハを「アルジェリア音楽とロックを融合したアーティスト」と呼ぶのは簡単だ。
しかし、それでは彼の本当の面白さが消えてしまう。
彼は、異なる音楽を混ぜる方法を発明したのではない。
異なる文化がすでに混ざっている世界を、自分自身の音楽として受け入れた。
アルジェリアで生まれた。
フランスへ移った。
リヨンで工場に勤めた。
夜にはDJをした。
パンクを聴いた。
アラブ音楽を聴いた。
Carte de Séjourを結成した。
移民について歌った。
「Douce France」を歌った。
ソロになった。
古いライを歌った。
The Clashを歌った。
Steve Hillageと作った。
KhaledとFaudelと歌った。
Damon AlbarnらとAfrica Expressで演奏した。
そして最後まで、文化の境界を移動し続けた。
だからタハの音楽を聴くと、ジャンルが混ざっているように聞こえる。
しかし本当は、ジャンルではなく人生が混ざっている。
それが彼の音楽を特別なものにした。
彼の音楽は、「どこの音楽なのか」という質問に簡単には答えない。
アルジェリアなのか。
フランスなのか。
アフリカなのか。
ヨーロッパなのか。
ロックなのか。
ライなのか。
パンクなのか。
その全部であり、そのどれでもない。
そして、そこにこそラシッド・タハの重要性がある。
現代の音楽では、複数の文化を持つことは珍しくない。
しかし、複数の文化を持っていることを「問題」ではなく「音楽そのもの」に変えられるアーティストは多くない。
タハはそれをやった。
彼は境界を越えただけではない。
境界線そのものを、リズムに変えた。
そして、そのリズムは今も踊れる。
ラシッド・タハが残した最大のメッセージは、どこか一つに属することではなく、複数の場所を自分の音楽として鳴らしていい、ということだった。