序章:世界のどこにもない“架空のカフェ”の残響
文:mmr|テーマ:PCO の成立から活動の軌跡、音響構造、主要作品の分析、Simon Jeffes の思想
Penguin Cafe Orchestra(以下 PCO)は、1970年代後半のイギリスに突如として現れた音楽ユニットである。 バンドというより “音楽的思想体” と呼ぶべき存在で、アンサンブルの形態・楽器編成・ジャンルの枠を越えた独自の音響は、今日もなお「唯一無二」と称される。
フォークでもクラシックでもアンビエントでもワールドミュージックでもない。 すべての要素を含みながら、どのカテゴリーにも完全には属さない。 それが PCO の最大の魅力であり、難解さであり、そして永続的な支持を得る理由である。
中心人物 Simon Jeffes は、パンク・ニューウェーブが席巻していたイギリスにおいて、流行とは無縁の“静かな革命”を起こした。 システマティックなミニマリズム、楽器を民族横断的に扱う姿勢、そしてユーモアと詩情に満ちた音楽観。 彼が構築した“架空のカフェ”は、いまなお世界中の音楽ファンを招き入れ続けている。
第1章 誕生:熱に浮かされた「幻視」から始まったプロジェクト
PCO の出発点は、1972年、創始者 Simon Jeffes が“食中毒で高熱に倒れた”という奇妙な出来事にある。 彼はそのとき、後に「Penguin Cafe のヴィジョン」と呼ばれる白昼夢的なインスピレーションを見た。 そこには、人々が自由に集まり、規律も形式もなく音楽を作り続ける“理想郷”が存在した。
Jeffes は、この幻視を具現化するために、クラシックの室内楽編成、フォークの素朴な駆動力、アフリカや南米のリズムの生命力、そしてミニマルミュージックの反復構造を混ぜ合わせた独自の音楽を構築する。 その音楽は、伝統でも前衛でもなく、ただ「ここにしかない音」として結晶した。
第2章 編成と思想:固定化されない“オーケストラ”
PCO の編成はアルバムやライブごとに変化し、固定メンバーの「バンド」とは異なる。 Simon Jeffes を中心に、元クラシック奏者、フォーク・ミュージシャン、実験音楽家が参加し、彼らは 「プロジェクト単位で集まる室内楽集団」として振る舞う。
● 主な参加メンバー
- Simon Jeffes(ギター、カヴァキーニョ、ウクレレ、鍵盤、作曲)
- Helen Liebmann(チェロ)
- Geoffrey Richardson(ヴィオラ、その他多楽器)
- Steve Nye(キーボード)
- Gavyn Wright(ヴァイオリン)
- Julio Segovia(パーカッション)
● 編成の特徴
- 民族楽器: cuatro、charango、African drum
- 室内楽器: cello, viola, violin
- 小型弦楽器: ukulele, cuatro
- 古楽器とモダン楽器が同居
- 反復フレーズの重層構造
● 彼らの思想の核
Jeffes は自身の音楽を「自然発生する構造」と表現した。 西洋音楽の規則ではなく、民族音楽の伝統でもなく、音の集積が偶然に形を成すような有機的なプロセス。 この“自然発生性”こそ、PCO の音が時に呪術的でありながら、どこか日常的な温かさを持っている理由である。
第3章 代表曲の深層構造 ― 音響分析
本章では、PCO の象徴的な楽曲の内部構造を分析する。
3-1. Music For a Found Harmonium(1984)
PCO の代表曲。 京都の路上で拾った壊れかけのハーモニウムで演奏し作曲したという逸話が象徴的だ。
構造的特徴
- 主旋律は単純なスケール運動
- 中間部で微分音的なズレを含む
- ハーモニウムの持続音を軸に、ギターの分散和音が反復
- 民族音楽的な躍動とクラシックの精密さの融合
この曲は現代でも映画、CM、ダンス作品で頻繁に使用され、PCO を象徴する“軽やかな祝祭性”がある。
3-2. Perpetuum Mobile(1987)
日本でも多くのテレビ番組で使われるPCO屈指の名曲。 ミニマルミュージック的な反復構造を持つが、スティーヴ・ライヒほど厳格ではなく、むしろ温度のある反復だ。
構造
- 鍵盤の反復するアルペジオ
- 弦楽器の長音で空間を形成
- 中盤からパーカッションが加わり推進力を獲得
- 最後に再び静謐へ戻る“往復式構造”
時間の伸縮をそのまま音楽にしたような、静かでありながらドラマティックな曲だ。
3-3. Telephone and Rubber Band(1981)
クラシカルなアンサンブルに突如として電話のツー・トーンが鳴り響くという奇妙な楽曲。
特徴
- テープ操作による電話音声のループ
- アンサンブルの上に“異物”として存在する電子音
- ユーモラスだが同時にポストモダン
Minimal + Found sound(偶発音)という点で、Brian Eno の系譜とも交差する作品である。
第4章 アルバムごとの世界観
PCO は作品ごとに「架空の空間」を構築する」。 以下では主要アルバムを解説する。
● Music from the Penguin Cafe(1976)
Virgin Records のサブレーベル Obscure からリリースされたデビュー作。 Brian Eno がプロデュースした Obscure 作品群の中でも、もっとも「異質」で“明るい”。 フォークロアと反復構造が融合し、後のスタイルがほぼ完成している。
● Penguin Cafe Orchestra(1981)
著名曲「Telephone and Rubber Band」収録。 民族音楽的アプローチが強く、独自の“舞曲性”を獲得する。
● Broadcasting from Home(1984)
名曲「Music For a Found Harmonium」収録。 PCO ならではの明度の高い音響がピークに達するアルバム。
● Signs of Life(1987)
室内楽色が強まり、よりシネマティックな世界へ進化。 「Perpetuum Mobile」収録。
● Union Cafe(1993)
Simon Jeffes 生前最後のスタジオ作。 全体の構造はより瞑想的で、音響は透明度が増している。 晩年の Jeffes の精神性が濃く表れた作品で、後年評価が急上昇した。
第5章 文化的影響 ―“無国籍の優しさ”が世界中に浸透した理由
PCO の音楽は、商業音楽界のトレンドとは無縁ながら、多くの国でさまざまな形で受容された。
● カフェ・ラウンジ文化との親和性
1990年代後半の「カフェミュージック」ブームで再評価。 軽やかで耳馴染み良く、それでいて背景化しない“主張のあるアンビエント”が注目された。
● メディア利用の多さ
- TV番組のBGM
- CM
- 映画(特にヨーロッパ系監督作品)
- バレエ/ダンスカンパニーの音源
PCO の音楽は、情緒的でありながら説明的ではないため“映像が呼吸できる音”として重宝される。
● 後続世代への影響
- Max Richter
- Olafur Arnalds
- Penguin Cafe(息子 Arthur Jeffes による後継プロジェクト)
- Folk/Minimal 系アーティスト
PCO の「ジャンル不在」「室内楽と民俗楽器の融合」というアプローチは、現代のポストクラシカルの潮流の先駆けであった。
第6章 Simon Jeffes の死と、その後
1997年、Simon Jeffes は脳腫瘍のため48歳の若さで他界した。 音楽界にとっては大きな損失であったが、残された録音・未発表ノート・演奏スコアは現在も再評価が続いている。
のちに息子の Arthur Jeffes が “Penguin Cafe” 名義で新プロジェクトを開始。 PCO の精神を引き継ぎつつ、より現代的なアンサンブルとして世界を巡っている。
付録:年表・図解
年表:Penguin Cafe Orchestra Chronology
図解:PCO 音響構造マップ
図解:楽器レイヤー構造(Perpetuum Mobile)
結語:なぜ PCO は“時代を超えて”響くのか
Penguin Cafe Orchestra の音楽は、50年近く経ったいまも新鮮さを保っている。 この長寿性を支えているのは――
- 国籍を持たない
- 時代性に依存しない
- 感情を強制しない
- しかし深い温度を持つ
という矛盾のない融合である。
PCO の音は「背景に溶ける」ことも「主役になる」こともできる。 リスナーの心の状態に寄り添い、その都度まったく違った曲に聴こえる。
それは、Simon Jeffes が熱の中で見た“架空のカフェ”が、今も世界中のどこかで静かに営業し続けているということなのかもしれない。