マイクロトーナル音楽 ― 音律解体以後の作曲思想・音響構造・制作技法
文:mmr|テーマ:音程を固定前提としない制作思想への転換について
マイクロトーナル音楽は、平均律という近代音楽の前提を疑問視するだけでなく、音楽制作そのものの思考単位を変質させてきた。本稿では音律史・理論・音響構造・制作実践を分離せず、相互に連結した運動として再構成する。
1. 音律は規則ではなく思想である
12平均律は音楽理論というより、制作と流通のための工業規格として確立した側面が強い。 転調の自由度、鍵盤楽器の量産、教育の標準化という要請に応答した結果であり、音響的最適解ではない。
マイクロトーナル音楽が問題化するのは「半音より細かい」という数値ではなく、 音程を固定単位として扱う思想そのものである。
音程は本来、周波数比・倍音関係・身体的知覚によって定義される相対概念であり、 12平均律はそれを一時的に凍結した状態に過ぎない。
2. 非平均律的音程は周縁ではなかった
前近代・非西洋音楽において、音程の細分化は例外ではない。
- アラブ音楽のマカームでは音程は機能的に可変
- インド古典音楽ではシュルティが旋律装飾と不可分
- 東南アジアのガムランでは同一楽器群でも微妙な音程差が前提
これらは「微分音」というより、平均律的固定化が存在しない音楽文化である。
近代西洋音楽史は、これらを排除したのではなく「理論化しなかった」。
3. 19世紀末に顕在化した平均律の限界
19世紀後半、和声の肥大化と半音階的語法の常態化により、以下の問題が顕在化した。
- 純正三度・六度の音響的濁り
- 和声色彩の均質化
- 調性感覚の希薄化
多くの作曲家は無調や十二音技法へ向かったが、 別の系譜では「音程の再分割」そのものが選択された。
4. 20世紀初頭のマイクロトーナル理論潮流
4.1 等分音律の拡張
24EDO、31EDO、19EDOなどは平均律の論理を保持したまま分割数を増やす方法である。
- 記譜・教育への転用が比較的容易
- 和声機能の拡張が可能
- 音響的純度は限定的
4.2 純正律再評価
純正律は倍音列に基づく音程比率を用いる。
- 協和音程の透明度が高い
- 転調構造が制限される
- 理論理解と実装が困難
この選択は音楽を「移調可能な構造」から「局所的音響構造」へ変換する。
5. Harry Partch ― 音律・楽器・身体の再統合
Harry Partchの重要性は、マイクロトーナル音楽を『作曲技法』ではなく『生態系』として構築した点にある。
5.1 43音純正律の構造
Partchはオクターブを43の音高に分割したが、 これは均等分割ではなく、倍音比率の網目構造である。
- 単純整数比を優先
- 調性感覚は存在するが移調不可
- 音程関係が幾何学的に可視化可能
5.2 楽器設計の必然性
既存楽器は音律思想を内蔵しているため、 新たな音律は新たな楽器を要求する。
Partchの楽器群は以下の役割を担った。
- 音程構造の視覚化
- 演奏身体への直接的刻印
- 理論と実践の不可分化
5.3 身体性・言語・音程
Partchは朗唱や身体動作を組み込み、 音程を抽象数値ではなく「発声と身体運動の延長」として扱った。
これはマイクロトーナル音楽を知覚心理の次元へ引き戻す試みである。
6. 記譜法という思想装置
マイクロトーナル音楽において、記譜は単なる伝達手段ではない。
- 追加臨時記号
- 比率表記
- 数値指定
- 独自記号体系
どの方法を選ぶかは、 音程をどう理解させたいかという思想選択に直結する。
7. 電子音楽がもたらした決定的転換
電子音楽は、マイクロトーナリティを「理論的可能性」から 制作上の選択肢へと変えた。
- 周波数指定が直接可能
- チューニングテーブルの即時変更
- 鍵盤配置からの解放
これにより、音律は固定前提ではなく可変パラメータとなった。
8. 音響分析:微分音が生む現象
8.1 うなりと位相干渉
微小な音程差は以下を引き起こす。
- ビート周波数の顕在化
- 音像の揺らぎ
- 空間的拡散感
これはノイズではなく、可聴な構造要素として利用可能である。
8.2 倍音配列の再編
純正律では倍音が整列するため、
- 和音の透明度が上昇
- 周波数帯域の干渉が減少
- ミックス時のEQ負荷が変化
平均律和声とは異なるミキシング戦略が必要となる。
9. Jacob Collier ― 音律理論の感覚化
Jacob Collierはマイクロトーナル理論を『理解させる』のではなく『感じさせる』形で提示した。
9.1 倍音列の実践的応用
- 純正三度・七度の使用
- ボーカル多重による音程固定
- 和声の感情的輪郭強化
9.2 ポップ構造との共存
Collierの特徴は、 マイクロトーナル要素を楽曲構造の主題にしない点にある。
- フォームは伝統的
- 音律は内部で変形
- 聴取者は違和感を理論化せず受容
10. 制作技法:実務的アプローチ
10.1 作曲設計
- 使用音律の決定
- 和声可能域の把握
- 転調可否の検討
10.2 DAW実装
- Scalaファイル使用
- MIDIノート別チューニング
- ピッチベンド分解能設定
10.3 ミックス戦略
- 微分音帯域の可視化
- モノラル耐性の確認
- 位相管理の厳密化
11. 聴覚心理と知覚再教育
マイクロトーナル音楽は、聴覚を再訓練する。
- 協和・不協和の再定義
- 調性感覚の揺らぎ
- 音程への注意喚起
これは知的理解ではなく、反復聴取によって定着する。
12. 現代シーンにおける分布
マイクロトーナル音楽は単一ジャンルを形成しない。
- 実験音楽
- 電子音楽
- ジャズ/ポップ内部
- 映像・インスタレーション
それは「ジャンル」ではなく制作思想として存在する。
13. 音律構造関係図
14. 年表:マイクロトーナル音楽の展開
15. 結語
マイクロトーナル音楽は音程を増やす運動ではない。音程を固定前提としない制作思想への転換である。Harry Partchは音楽を身体と空間へ引き戻し、Jacob Collierはその理論を現代的感覚へ翻訳した。この運動は今後も、音楽制作の深層で静かに作用し続ける。