序章:録音室という“もうひとつの楽器”
文:mmr|テーマ:マイルス・デイビスとテオ・マセロが築いた『編集による音楽革命』——テープスプライスと構成の魔術を通して、録音芸術の新地平を辿る。
1960年代末、マイルス・デイビスの音楽はライブの延長線ではなく、録音編集によって構築された“音の建築物”へと変貌していった。その変革の背後には、プロデューサー兼編集者 テオ・マセロ(Teo Macero) の存在がある。
マセロは単なる「裏方」ではなかった。彼の手によって、膨大なセッションテープが切り貼りされ、再構築され、“編集による作曲”と呼ぶべき作品群が誕生した。
『In a Silent Way』(1969)や『Bitches Brew』(1970)は、その代表例である。そこには“演奏”と“構成”の境界を超えた、編集美学の革命が潜んでいる。
第1章:テオ・マセロという編集者の誕生
テオ・マセロは1925年、ニューヨーク州グレンズフォールズに生まれる。ジャズ・サックス奏者として活動を始めた彼は、後にコロンビア大学で作曲を学び、アヴァンギャルドな現代音楽にも親しんだ。
ストックハウゼンやヴァレーズと同様に、マセロは音を素材として扱う意識を早くから身につけていた。
1950年代後半、彼はコロムビア・レコードのスタッフ・プロデューサーとなり、マイルス・デイビスやデイヴ・ブルーベックなどのプロジェクトを担当するようになる。
だが、他のプロデューサーと決定的に異なっていたのは、編集そのものを創造の場として理解していた点だった。
「演奏が終わっても、音楽は終わらない。編集室で、もう一度始まるんだ」
— テオ・マセロ
第2章:『In a Silent Way』—— 時間の編集という魔法
1969年録音の『In a Silent Way』は、ジャズ史における“編集の起点”といえる。
マイルス、ジョン・マクラフリン、チック・コリア、ウェイン・ショーターらが即興的にセッションを行ったが、テオ・マセロはその録音を大胆に再構成した。
特に印象的なのは、冒頭と終盤で同じテイクを使用する「輪環構造」だ。
実際の録音では一度しか演奏されなかったフレーズが、マセロの編集によって“再登場”することで、時間のループという概念が音楽的に体現された。
この構造は、後のアンビエントやミニマル・テクノにも通じる感覚を先取りしている。
マセロは「音楽の線的時間」を切断し、「編集による円環的時間」を作り上げたのだ。
第3章:『Bitches Brew』—— カオスから秩序を生む手術台
1970年の『Bitches Brew』では、マセロの編集術がさらに爆発的に発展する。 6台以上のテープレコーダーが同時に回り、スタジオはまるで“実験室”のようだった。
各演奏者はテーマの共有もなく、断片的な即興の洪水が生まれる。 マセロはそれらの断片を数メートル単位でスプライスし、リズムの流れや音響の“場”を編集によって設計していった。
「私は音を切り刻んで再構成した。それは作曲と同じ行為だった」 — テオ・マセロ
彼の手法は、ミュージック・コンクレートのようでありながら、ジャズの自由即興とも結びついていた。 『Bitches Brew』における編集は、録音後の“もう一つの即興演奏”といえる。
第4章:編集=作曲という思想
テオ・マセロの最大の貢献は、録音技術を単なる補助的手段から創造的メディウムへと引き上げたことだ。 それは「編集=作曲」というパラダイムの先駆だった。
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物理的切断(テープスプライス)による構造変換
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空間的合成(リバーブ、パン、レイヤー)による音場設計
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偶然性の統御(フレーズの順序組み替え)による新しい文脈創出
この哲学は後に、ヒップホップのサンプリングやブライアン・イーノのスタジオアートにも継承される。 つまりマセロは、「録音後の作曲家」という新しい職能を切り開いたのだ。
第5章:マイルスとの緊張関係
マイルス・デイビスとマセロの関係は、常に協働と衝突のあいだにあった。 マイルスは即興の自由を追求する一方で、マセロはその結果を編集によって形にしようとした。 両者の緊張は、作品の生命線そのものである。
ある意味で、マイルスの「革命」はマセロがいなければ成立しなかったし、マセロの編集魔術もマイルスの破壊的な素材があってこそ活きた。 両者の関係は、“構築と解体”のダイアレクティクスそのものであった。
第6章:ポスト・マセロの時代へ——継承と影響
1970年代後半、マセロはコロムビアを離れるが、彼の影響はその後の音楽制作全体に広がっていく。 特に以下の領域において、マセロ的編集思想は明確に継承された。
| 分野 | 代表アーティスト | 継承点 |
|---|---|---|
| アンビエント/電子音楽 | ブライアン・イーノ | 空間的編集と反復構造 |
| ヒップホップ | DJ Shadow, Madlib | サンプル編集=構築的作曲 |
| テクノ/実験音楽 | Plastikman, Autechre | 時間操作と断片美学 |
| 映像音楽/サウンドアート | ジョン・オズワルド | 既存素材の再文脈化 |
このように、マセロの「編集の精神」はデジタル時代においても脈々と生き続けている。
第7章:テープからDAWへ——技術の連続と断絶
今日、我々が使うDAW(Digital Audio Workstation)は、マセロの時代のテープ編集を非破壊的に再現する環境である。 しかし、決定的に異なるのは、編集と時間の“手触り”だ。
テープ時代の編集は不可逆的であり、ひとつの切断は常にリスクを伴った。 その緊張が、音楽に“生命”を与えていた。 デジタル時代におけるマセロ的感性とは、単なるツールの操作ではなく、編集を通して時間を設計する意識のことなのだ。
年表:マセロとマイルスの共同軌跡
第8章:マセロの編集手順 —— 「録音後の作曲」の実際
テオ・マセロの編集は単なる“カット&ペースト”ではない。
彼の工程は、録音素材を音の素材(sound material)として扱う、まさに作曲的プロセスであった。
以下のMermaid図は、彼の典型的な編集ワークフローをステップごとに再現したものだ。
数時間に及ぶ即興ジャムをマルチトラック録音"] --> B["2️⃣ テープ試聴・メモ化:
全テイクを聴取し、有効な断片を時間軸メモに記録"] B --> C["3️⃣ マークアップ:
“使える”瞬間(グルーヴ/テーマ)にマーカーを挿入"] C --> D["4️⃣ 断片抽出:
1〜2m単位で物理的に切断し、リールに整理"] D --> E["5️⃣ 編集設計図:
断片順序を紙上で構成図として設計(時間構成の作曲)"] E --> F["6️⃣ スプライス編集:
手作業でテープを接合(物理カット+テープ接着)"] F --> G["7️⃣ リスニング検証:
構成の流れ/緊張感を聴覚的に評価"] G --> H["8️⃣ 音響処理:
リバーブ・EQ・パンなどを施し空間化"] H --> I["9️⃣ 最終構築:
編集版マスターテープ完成 → LP化"]
このプロセスの中で最も重要なのが、「設計図=編集譜面」と呼ばれる段階である。 マセロは各断片に時間コードと内容を手書きでメモし、曲の構成を設計していた。 それはまるで建築家が空間をデザインするような作曲行為だった。
第9章:編集技術の哲学的側面 —— “構成する耳”の思想
マセロの編集思想は、録音を“客観的な記録”ではなく、“再構成される経験”として捉える点にある。 ここには20世紀芸術全体に共鳴する哲学的基盤がある。
| 思想的要素 | 内容 | 関連領域 |
|---|---|---|
| 構成主義(Constructivism) | 素材の配置と再構成によって意味が生まれる | 建築・現代音楽 |
| 偶然性の制御(Controlled Chance) | 即興の断片を編集で統御する | ケージ、ヴァレーズ |
| 時間の彫刻(Sculpting in Time) | 編集を通じて“聴覚的時間”を設計 | 映画編集(タルコフスキー) |
| メタ作曲(Meta-composition) | 作曲の上位階層で素材を再構成する | サウンドアート、DAW文化 |
マセロは、録音後に作曲を行う“二段階作曲”という概念を最初に具現化した人物である。 彼にとって、即興とは「素材の生成」であり、編集こそが「構築の場」であった。
「演奏は素材を生む過程であり、編集はそれを意味に変える過程だ」 — テオ・マセロ
第10章:音響分析 —— 編集が作り出した“聴覚構造”
テオ・マセロの編集は単に楽曲構成を変えるだけでなく、音響空間と聴取の構造そのものを変質させた。 特に『In a Silent Way』と『Bitches Brew』を比較すると、編集の方向性に明確な音響哲学が見える。
| 要素 | 『In a Silent Way』(1969) | 『Bitches Brew』(1970) |
|---|---|---|
| 時間構造 | 循環的(A→B→A構成) | 断片的・非線形 |
| 編集方法 | テイク反転・ループ | スプライス+多層配置 |
| 音響感覚 | 流体的・瞑想的 | 密集・爆発的 |
| ステレオ空間 | 広がり重視(左右分離) | 密度重視(中心集中) |
| リズム構築 | 編集でグルーヴを強調 | 編集で衝突をデザイン |
| 目的 | “無時間的”サウンドの創出 | “混沌の秩序”の構築 |
これらの音響設計は、当時のアナログ技術の限界を逆手に取った結果でもある。 テープ編集の“切断ノイズ”や“接続の違和感”さえも、マセロは構造的効果として意識的に残していた。
分析補足:音響的特徴
- ループ構造による没入感
→ 聴取者の時間感覚を溶解させる。
- 断片編集によるリズム再文脈化
→ 即興を構築的グルーヴへ変換。
- ミキシング段階での空間設計
→ ステレオの左右ではなく“深さ軸”を重視。
マセロの編集音響は、のちのテクノやアンビエント、エレクトロニカが目指した「時間の彫刻」をすでに実践していたといえる。
補図:マセロ式「編集による作曲」モデル
第11章:『Bitches Brew』—— テープ構成と編集地図
『Bitches Brew』は、1969年8月19〜21日にかけてコロンビア・スタジオBで録音された。
セッションは3日間にわたり、各テイクは数十分に及ぶ即興ジャム形式だった。
テオ・マセロはこの膨大な録音素材をスプライス編集し、最終的なアルバム構造を構築した。
テープ構成概要
マセロはこれらのトラックを部分的に切断・再配置し、別テイク同士を物理的に接合。 その結果、アルバムは「一回の演奏」ではなく、複数テイクの合成体として構築された。
編集構造:タイトル曲「Bitches Brew」
以下は、タイトル曲「Bitches Brew」(約27分)のテープ編集構造を、 テイク/スプライス位置/再使用区間で表現したものです。
特徴的な編集操作
| 編集手法 | 内容 | 効果 |
|---|---|---|
| スプライス① | ドラム・ベース層からトランペットソロへ強制遷移 | “自然発生的”構成に見せかけた切断 |
| スプライス② | セッションBとCの接続(テンポ不一致) | 聴覚的混乱 → トランス効果 |
| スプライス③ | 異なるリズム層を重ねる | グルーヴの多層化 |
| スプライス④ | テーマの再帰挿入 | 構造的円環化(In a Silent Way的技法) |
マセロの「編集譜面」概念図
この「編集譜面」には、各セグメントの時間・テンポ・素材出典テイクが記されており、 マセロはそれを“音の地図(map of sound)”と呼んでいた。 後年のブライアン・イーノが提唱する「スタジオ作曲法」に先行するものと言える。
音響的構築ポイント
| 要素 | 手法 | 音響的意図 |
|---|---|---|
| ステレオ空間 | リアル演奏では不可能な定位(ドラム左右配置) | 視覚的空間感覚の拡張 |
| テープリピート | 同フレーズを再挿入(再帰構造) | 聴覚的催眠効果 |
| EQ/リバーブ操作 | マルチテイク間の質感統一 | 時空的連続性の擬似生成 |
| 断片残響の“継ぎ目” | わざと残す | 編集痕跡を音楽化(サウンドの継ぎ目を“構造”に) |
結果としての「編集作曲」
マセロが創った『Bitches Brew』は、もはや“演奏を編集した作品”ではない。 それは、編集そのものを作曲法とする「構造的即興」である。
補足:編集による時間構造の再構成
『Bitches Brew』における編集は、ジャズ即興の“録音後的延長”である。 演奏の瞬間性と編集の構築性がせめぎ合うその境界に、マセロの芸術が宿る。 それはスタジオという空間を「もうひとつの楽器」として奏でる試みだった。
終章:テオ・マセロの“耳”が遺したもの
マセロの編集は、単なる「後処理」ではなく、録音芸術そのものの再定義であった。 彼は演奏と編集のあいだに明確な線を引かなかった。むしろその間隙こそが創造の源泉だった。
現代の音楽制作において、私たちが無意識に行う“カット&ループ”、“オートメーション”、“リミックス”といった行為は、すべてマセロの思想の延長線上にある。 彼の功績は、録音というテクノロジーを人間の思考の延長として芸術化したことに他ならない。
「編集とは、時間にハサミを入れることだ。そして、切られた時間は新しい音楽になる。」 — テオ・マセロ