How Cities Create Music
文:mmr|テーマ:都市の人口、産業、移民、空間、テクノロジーが音楽の形を変えていく歴史を八都市から読み解く
音楽史を調べていると、ある都市の名前がジャンル名のように使われる瞬間がある。
Detroit。
Berlin。
Manchester。
Lagos。
Johannesburg。
Kingston。
New York。
Tokyo。
もちろん、音楽は都市の所有物ではない。あるジャンルを生み出した人間は、都市そのものではなく、そこに暮らす人間だ。
それでも、都市を無視して音楽史を説明することは難しい。
なぜなら、都市には人間を集める力があるからだ。
工場が人を集める。
港が人を集める。
鉄道が人を運ぶ。
移民が新しい言語を持ち込む。
クラブが夜の人間関係を作る。
レコード店が情報を集める。
教会が歌を育てる。
集合住宅が隣人を近づける。
逆に、工場が閉鎖されれば人が去り、空きビルが増える。
その空きビルがクラブになることもある。
高速道路が街を分断すれば、別々の地域に異なる音楽文化が育つこともある。
政治的な分断があれば、音楽がそれを越えることもある。
つまり都市は、単なる「音楽が存在する場所」ではない。
音楽が生まれる条件そのものを作っている。
Detroitでは、自動車産業の巨大な都市構造とアフリカ系アメリカ人の移住、ゴスペル、ジャズ、R&Bが交差し、Motownという高度に組織化されたポップ音楽の生産システムが生まれた。その後、同じ都市からBelleville Threeを中心とするテクノが登場した。
Berlinでは、壁によって分断されていた都市が1989年以降に巨大な空間を獲得し、廃墟や旧工業施設がクラブへ変わった。Detroitのテクノは大西洋を越えてBerlinに入り、現地の社会状況の中で別の意味を持つようになった。
Manchesterでは、工業都市の衰退とポストパンク、Factory Records、Haçienda、ハウス、アシッド・ハウスが結びつき、都市のイメージそのものが音楽によって作り替えられた。
Lagosでは、植民地支配後の社会、都市化、西アフリカの伝統音楽、ジャズ、ファンク、政治運動が交差し、Fela KutiのAfrobeatのような音楽が生まれた。
Johannesburgでは、アパルトヘイトによる都市空間の分離と、Sowetoを含む都市文化、南アフリカのダンス音楽が交差し、やがてKwaitoのような都市型音楽が登場する。
Kingstonでは、sound systemという移動可能な音楽装置が街の若者を結び、ska、rocksteady、reggae、dancehallへとつながる音楽文化を作った。
New Yorkでは、人口密度、移民文化、クラブ、ブロックパーティー、レコード文化が重なり、1970年代のBronxでHip-Hopが形成された。
そしてTokyoでは、巨大な消費都市とレコード店、クラブ、スタジオ、電子楽器、メディア産業が結びつき、City PopやShibuya-keiのような「都市そのものを意識した音楽」が発展した。
八つの都市は、それぞれ違う歴史を持っている。
しかし、その背後には共通した構造がある。
音楽は都市の背景で鳴っているのではなく、都市が作り出す人間関係そのものから生まれている。
都市は「人口の集合」ではなく「音楽の装置」である
都市について考えるとき、まず人口を思い浮かべることが多い。
しかし音楽にとって重要なのは、人口の多さだけではない。
重要なのは、人間同士がどれだけ近くに存在し、どれだけ頻繁に接触するかである。
小さな町でも音楽は生まれる。
だが都市では、異なる文化が隣り合う。
同じ通りに異なる言語があり、異なる宗教があり、異なる階級があり、異なる世代がいる。
そこにレコード店ができる。
クラブができる。
バーができる。
教会ができる。
学校ができる。
スタジオができる。
そして、音楽家が音楽家に出会う。
この「出会いの密度」が都市の音楽を変える。
音楽は、完全に孤立した天才が一人で発明するものではない。
誰かが別の誰かからリズムを聞き、別の誰かがそのリズムを変え、さらに別の誰かがそれを別の場所へ持っていく。
都市では、この連鎖が短時間で起きる。
そのため都市の音楽史は、ジャンルの歴史であると同時に、人間の移動の歴史でもある。
Detroitの音楽には南部から北部へ移動したアフリカ系アメリカ人の歴史がある。
New YorkのHip-Hopには移民、黒人、カリブ系住民などが暮らすBronxの都市環境がある。
Kingstonの音楽にはジャマイカの独立前後の社会と、都市のsound system文化がある。
Lagosの音楽にはアフリカ大陸内外の文化的交流がある。
都市は異なる場所から来た人間を同じ空間に置く。
そこで文化が混ざる。
ただし、「混ざる」という言葉だけでは不十分だ。
音楽では、文化は混ざるだけではなく、選択され、切り取られ、再配置される。
その結果、以前には存在しなかった形式が生まれる。
例えばDetroitのMotownは、ゴスペル、R&B、ポップス、ジャズなどを組み合わせただけではない。
Berry Gordyは、自動車産業の都市Detroitで、音楽を制作、録音、宣伝、販売する仕組みを組織化した。
Motownの制作システムは、自動車工場の生産ラインと比較されることがある。作曲、演奏、歌唱、録音、品質管理などを分業化し、大量のヒット曲を生産する仕組みを構築した。
これは重要なポイントである。
都市は音楽の「内容」だけでなく、音楽の「作り方」まで変える。
都市が音楽を作るということは、都市が曲を書くという意味ではなく、曲が生まれる確率を高める環境を作るという意味である。
Detroit — 工場の街から電子音楽の未来都市へ
Detroitほど「都市と音楽」の関係を象徴する場所は少ない。
Detroitは20世紀のアメリカ自動車産業の中心地となり、Henry Fordの大量生産方式に代表される工業都市として発展した。
その産業は大量の労働者を必要とした。
南部から多くのアフリカ系アメリカ人が北部へ移住し、Detroitにも人口が流入した。
そこで生まれた都市文化の中から、ゴスペル、ジャズ、ブルース、R&Bが発展していく。
1930年代からDetroitは黒人ゴスペル音楽の重要な中心地の一つだった。
そして1950年代、Berry Gordy Jr.がMotownを設立する。
MotownはDetroitのニックネーム「Motor Town」を思わせる名前でもある。
1959年には、Detroitのジャズやブルースのシーンから優れたミュージシャンが集められ、後にFunk Brothersとして知られるセッション・ミュージシャンたちが数多くのヒット曲の録音を支えた。
Motownの音楽は、単純に「黒人音楽」だったわけではない。
ゴスペルのコール・アンド・レスポンス。
R&Bのリズム。
ポップスの簡潔な構造。
ジャズ・ミュージシャンの演奏技術。
振付。
衣装。
レコード・ジャケット。
ラジオ。
テレビ。
それらが一つの都市の中で接続された。
「The Sound of Young America」というMotownのキャッチフレーズは、Detroit発の音楽を全国市場へ届けるための思想でもあった。
しかしDetroitの物語はMotownで終わらない。
むしろ、ここから都市と機械の関係がさらに直接的になる。
1980年代、Juan Atkins、Kevin Saunderson、Derrick Mayら、いわゆるBelleville Threeを中心にDetroit Technoが形成される。
その音楽は、シンセサイザー、ドラムマシン、シーケンサーなどの電子機器を使いながら、ヨーロッパの電子音楽やファンク、P-Funk、ディスコなどの影響を吸収した。
Motownが都市の工業的な生産システムをポップ音楽へ翻訳したとすれば、Detroit Technoは工業都市の未来像を電子音へ翻訳したとも考えられる。
ここには大きな違いがある。
Motownは、人間の声と生楽器を中心にした洗練されたポップ音楽だった。
Technoは、機械の反復そのものを音楽の中心に置いた。
Detroitは、自動車を作る都市だった。
そして、その都市から「機械で踊るための音楽」が出てきた。
この関係は偶然として片づけることもできる。
しかし、都市環境と音楽環境の類似性は非常に興味深い。
工場では、同じ動作が繰り返される。
機械は一定の周期で動く。
ラインは反復する。
Technoも反復する。
ただし、その反復は単調さではなく、微細な変化によって進行する。
4つ打ちのキックが続く。
ハイハットが変わる。
シンセのフィルターが開く。
音が増える。
減る。
そして同じパターンに戻る。
これは工場の音をそのまま録音したものではない。
むしろ工業都市に生きる人間が、機械、未来、都市、黒人音楽、電子技術を自分たちなりに組み合わせた結果だった。
Detroitの重要性は、MotownとTechnoという二つの巨大な音楽文化を生み出したことだけではない。
その二つが、都市の異なる時代を映していることにある。
Detroitは、工場で働く人間の街から、機械そのものを音楽の言語に変換する都市へと変化した。
Berlin — 壁の崩壊がクラブの空間を生んだ
Berlinの音楽史を語るとき、1989年11月9日を避けることはできない。
この日、Berlin Wallが開かれた。
その後のBerlinでは、それまで分断されていた都市空間が急速に変化した。
特に重要だったのが、旧東ベルリン側を中心とする空き建物や未利用空間だった。
都市の境界が消えたことで、若者たちは新しい場所を使えるようになった。
工場。
倉庫。
地下室。
発電所。
銀行の金庫。
壁の跡地。
こうした場所がクラブ文化の舞台になった。
1989年7月にはDr. Motteが最初のLove Paradeを開催している。
当時の参加者は約150人だった。
それは後に巨大なテクノ・イベントへ成長する。
1990年代初頭、Berlinのクラブ文化は急速に拡大した。
Tresorはその象徴だった。
Dimitri Hegemannが1991年に旧東ベルリン側のLeipziger Straßeにあった旧デパートの地下金庫を利用してクラブを作った。
そこにはDetroit Technoが流れ込んだ。
つまりDetroitで生まれた音楽が、Berlinの歴史的状況によって別の意味を持ち始めたのである。
ここが都市音楽史の面白いところだ。
同じ音楽でも、都市が変わると意味が変わる。
DetroitではTechnoは工業都市と未来の関係を感じさせる音楽だった。
Berlinでは、分断された都市が再統合される瞬間の音楽になった。
壁が消えた。
国家が変わった。
使われていなかった建物が開いた。
そして、その空間に音楽が入った。
Berlinのクラブ文化では、建築そのものが音楽体験の一部になった。
通常のライブハウスでは、音楽を聴くために建物へ入る。
Berlinの初期クラブでは、建物そのものが未知の体験だった。
暗い。
広い。
迷路のようである。
窓がない。
何のための建物だったのか分からない。
その中で巨大な音が鳴る。
これは音楽ジャンルだけでは説明できない。
空間が音楽を作っている。
Berlinでは、クラブが「会場」から「都市の実験室」へ変わった。
そしてLove Paradeは、クラブの音楽を都市の道路へ持ち出した。
1996年には約50万人が参加し、1997年には会場をStraße des 17. Juni周辺へ移した。1999年には約150万人が参加する巨大イベントとなった。
ここには都市音楽のもう一つの変化がある。
地下文化が都市の中心部へ出ていく。
クラブの中で生まれた文化が、道路を占領する。
そして、その規模が大きくなると商業化が始まる。
Love Paradeは巨大なイベントになる一方で、商業化への批判も強まった。
2001年にはドイツの連邦憲法裁判所がLove Paradeをデモ行進として認めない判断を示した。その後、開催をめぐる費用負担などの問題も生じた。
これはBerlinだけの問題ではない。
地下文化が成功すると、都市はそれを観光資源として扱い始める。
その瞬間、音楽文化は新しい段階に入る。
Berlinのテクノは、単なる電子音楽ではなく、分断の終わった都市で「空いていた場所を誰が使うのか」という問いから生まれた文化でもあった。
Manchester — 工場が消えたあと、クラブが街を再発明した
Manchesterは産業革命と深く結びついた都市である。
18世紀から19世紀にかけて、綿工業と工場が都市の発展を支えた。
Manchester City Councilも、Manchesterを産業、技術、社会的イノベーションの中心として位置づけている。
しかし20世紀後半になると、工業都市としてのManchesterは大きな変化を経験する。
工場が衰退する。
雇用が変わる。
中心部に空き空間が生まれる。
都市のイメージが古くなる。
その中で音楽が重要な役割を果たした。
1970年代後半から1980年代、ManchesterではPost-Punkの文化が発展する。
Joy Division。
New Order。
The Smiths。
Happy Mondays。
そしてFactory Records。
Factory Recordsは単なるレコード会社ではなかった。
アート、デザイン、建築、音楽を一つの文化として扱った。
レコードにはカタログ番号が付けられ、その番号は作品だけでなく、関連する物事にも広がった。Factoryの考え方はレコード会社というより、コンセプチュアル・アートに近い部分を持っていた。
そして1982年、Factory RecordsはHaçiendaをオープンする。
このクラブは、後にManchester音楽史の象徴になる。
しかし最初から成功したわけではない。
Guardianの記録によれば、Haçiendaは1982年にオープンしたものの、初期には客が少ない時期が続いた。1980年代後半になってHouseやAcid Houseの文化が入り込むことで、クラブの意味が大きく変わった。
ここでも都市が音楽を変える。
Haçiendaは、New Yorkのクラブ文化から影響を受けて設計された。
そこへChicago HouseやNew YorkのDance Music、Hip-Hopなどが入り込む。
Manchesterの若者がそれを受け取り、自分たちの文化へ変換した。
その結果、Madchesterと呼ばれる文化が形成される。
重要なのは、Manchesterが「House Musicを発明した都市」ではないということだ。
ChicagoやNew Yorkで生まれた音楽がManchesterへ入り、それがManchesterの社会環境と結びついて別の形になった。
つまり都市は音楽を「発明」するだけではない。
音楽を「翻訳」する。
この翻訳能力こそ都市文化の重要な特徴である。
Manchesterの音楽史は、音楽が都市を救ったという単純な物語ではない。
音楽だけで都市経済を復活させたわけでもない。
しかし、音楽が都市のイメージを変えたことは確かである。
Tony Wilson、Factory Records、Haçiendaなどを中心とした文化は、Manchesterを「衰退した工業都市」だけではなく、音楽と文化の都市として再定義する力を持った。
Manchesterでは、工場が作っていたものが減ったあと、都市そのものを意味づける文化が音楽から生まれた。
Lagos — 都市の騒音から生まれた政治的リズム
Lagosは、DetroitやBerlinとはまったく異なる都市である。
しかし、音楽が都市構造と結びつくという点では非常に似ている。
Lagosはナイジェリア最大級の都市圏であり、西アフリカの経済・文化の中心の一つとして発展してきた。
ここでは人口の集中、港湾、商業、移民、宗教、植民地支配後の社会変化が複雑に重なっている。
その都市文化を代表する人物の一人がFela Kutiである。
Felaは1938年に生まれ、1997年に亡くなった。
彼の音楽はAfrobeatとして知られるようになる。
Afrobeatは、単一の伝統音楽から生まれたものではない。
西アフリカのリズム。
Highlife。
Jazz。
Funk。
Soul。
アメリカの黒人音楽。
そしてFela自身の政治的思想。
それらが組み合わされた。
Felaの音楽で特徴的なのは、長い曲、複雑なリズム、反復、ホーンセクション、コール・アンド・レスポンス、そして政治的な歌詞である。
ここで都市が重要になる。
Lagosは政治権力と経済活動が集中する都市だった。
そのため、都市で起きる問題が政治的な音楽の題材になりやすかった。
Felaは政府や軍事政権を批判し、音楽を政治的な表現の場として使った。
Smithsonianの資料でも、Fela Kutiの音楽はNigeriaにおける政治的・社会的プロセスと結びついたものとして扱われている。
さらに重要なのは、Felaの音楽がバンドだけで成立していたわけではないことだ。
Africa 70のような大編成のグループが音楽を作り、歌手、演奏者、ダンサーなどがパフォーマンス全体を構築した。
1978年にはFelaが27人のダンサーと歌手と結婚したことも記録されており、彼女たちはAfrobeatの音楽とサブカルチャーにおいて重要な役割を担った。
ここでLagosの音楽は、クラブ音楽であると同時に政治的な公共空間になる。
音楽を聴く。
踊る。
歌う。
政治を批判する。
都市生活を語る。
これらが分離されていなかった。
Lagosの音楽文化には、都市の混沌がそのまま入っている。
交通。
市場。
宗教。
政治。
商業。
夜。
騒音。
人間の声。
そしてリズム。
それらは整然とした音楽ではなく、複数の層が同時に鳴る都市そのものに近い。
Afrobeatが後世のアフリカ音楽や世界のポップミュージックに与えた影響を考えると、Lagosは単なる「アフリカの音楽都市」ではない。
世界のポピュラー音楽がアフリカを再発見するための重要な入口でもある。
Lagosの音楽は、都市の混沌を消すのではなく、その混沌をリズムとして組み立てた。
Johannesburg — 分断された都市から生まれたダンス音楽
Johannesburgの音楽史を理解するには、南アフリカのアパルトヘイト政策を理解する必要がある。
1948年に国民党政権が成立すると、人種隔離政策が制度化されていった。
居住地域、移動、教育、雇用などが人種によって分けられた。
都市そのものが分断される。
音楽はその分断の中で発展した。
南アフリカでは、都市部の黒人コミュニティでさまざまな音楽文化が形成された。
Jazz。
Marabi。
Mbaqanga。
Township Jive。
Sowetoの音楽文化。
そして1980年代から1990年代にかけて、都市の若者文化がさらに変化していく。
その中で登場したのがKwaitoである。
Kwaitoは1990年代の南アフリカ、とくにJohannesburg周辺の若者文化と結びついて発展した。
House Musicのビートを取り入れながら、より遅いテンポと南アフリカ独自の言語表現、ラップ的なヴォーカルなどを組み合わせた。
ここでも重要なのは「Houseを南アフリカ人がコピーした」という説明ではない。
海外から入ってきた音楽が、Johannesburgの都市文化の中で別のものになった。
これはBerlinやManchesterと同じ構造である。
DetroitのTechnoがBerlinで再解釈された。
Chicago HouseがManchesterで再解釈された。
そしてHouseがJohannesburgで再解釈された。
音楽は移動すると、必ず変わる。
その変化を生むのが都市である。
Johannesburgでは、音楽とダンスが都市の若者にとって重要な自己表現になった。
アパルトヘイトが終わり、1994年にNelson Mandelaが大統領に就任すると、社会の政治的構造も大きく変化した。
Kwaitoはこの転換期の南アフリカを象徴する若者文化の一つとなった。
ここには非常に興味深い現象がある。
政治的解放と音楽的解放が完全に同じものではないということだ。
抗議歌だけが新しい社会の音楽ではない。
踊ること。
服を着ること。
言葉を変えること。
街を歩くこと。
クラブへ行くこと。
これらも社会の変化を表現する。
つまり、都市音楽は政治的メッセージを直接歌うだけではない。
都市で「どう生きるか」を表現すること自体が政治的になる場合がある。
Johannesburgの音楽史は、音楽が「自由になった社会」を祝ったというだけではない。
むしろ、自由がどのように日常生活へ入り込むのかを示している。
Johannesburgでは、都市の分断が音楽を生み、その分断が崩れたあとには、音楽が新しい都市のアイデンティティを作り始めた。
Kingston — レコードより先に「音を運ぶシステム」があった
Kingstonの音楽史には、他の都市と決定的に違う特徴がある。
音楽が「レコード」だけではなく、「sound system」を中心に発展したことだ。
1950年代から1960年代、Kingstonではsound system danceが盛んになった。
Sound systemとは、大型スピーカー、ターンテーブル、アンプなどを使って音楽を再生する移動型の音響システムである。
これは単なる機材ではなかった。
音楽を運ぶ装置だった。
場所を選ばない。
大きな会場がなくてもいい。
自分たちでスピーカーを持っていけば、街のどこでも音楽空間を作ることができる。
Smithsonianの資料によれば、1950年代から1966年ごろのska期にKingstonの都市部でsound system danceが広がり、若者がそこで流れる音楽から影響を受けた。Sound systemは階級を越えて若者が集まる重要な黒人コミュニティ空間でもあった。
ここからskaが発展する。
そしてrocksteady。
reggae。
dancehall。
という流れが生まれていく。
この歴史を考えると、Kingstonの音楽は「ジャンル」より「インフラ」から理解したほうが分かりやすい。
Sound systemがある。
DJがいる。
Selectorがいる。
観客がいる。
ダンスがある。
競争がある。
新しいレコードを誰より先に流す。
別のsound systemより大きな音を出す。
観客を盛り上げる。
この競争環境が音楽の進化を促した。
そして、ここからDubのような革新的な音楽制作方法も生まれる。
録音された音源からヴォーカルを抜く。
ドラムとベースを強調する。
エコーを加える。
残響を深くする。
音の一部を消す。
別の音を重ねる。
こうしたDubの技法は、後のHip-Hop、Electronic Music、Dance Musicなどに大きな影響を与えた。
つまりKingstonは、単にReggaeの都市ではない。
「録音された音を素材として再加工する」という現代的な音楽制作思想の重要な場所でもある。
これは後のサンプリング文化ともつながる。
New YorkではDJがレコードのbreakを延長した。
KingstonではDub producerが既存録音を再構成した。
Detroitでは電子機器を使って反復する。
Berlinではクラブ空間そのものが音楽を変える。
Manchesterでは海外のDance Musicを都市文化へ翻訳する。
音楽史は、それぞれ独立した出来事に見えて、実際には技術と都市の連鎖になっている。
Kingstonが世界の音楽に残した最大の発明の一つは、曲そのものだけではなく、音を「持ち運び、競争させ、分解し、再構成する」文化だった。
New York — 密集した街がHip-Hopを作った
1970年代のNew York、とりわけBronxは、都市問題の影響を強く受けていた。
失業。
貧困。
住宅問題。
都市サービスの低下。
地域社会の変化。
こうした環境の中で、若者たちは街の中に自分たちの文化空間を作っていった。
Hip-Hopの起源として知られる出来事が1973年8月11日に起きる。
DJ Kool HercがBronxのアパートのレクリエーションルームでパーティーを開いた。
そこで彼は2台のターンテーブルを使い、レコードのbreak部分を長くつなげる技法を使った。
この「break」を繰り返す発想が、Hip-Hopの初期文化において重要な意味を持つ。
Smithsonianは1973年8月11日のこのパーティーをHip-Hopの形成史における重要な出来事として扱っている。
だが、ここで重要なのはDJ Kool Herc一人ではない。
Afrika Bambaataa。
Grandmaster Flash。
そして多くのDJ、MC、ダンサー、グラフィティ・アーティストたち。
Hip-Hopは一人の発明ではなく、Bronxの都市文化の中で形成された複数の実践の集合だった。
そして、都市空間がその文化を可能にした。
Block Party。
公園。
アパート。
ストリート。
体育館。
地域施設。
音楽を聴く場所と踊る場所が街の中に存在した。
Smithsonianによれば、20世紀前半のアメリカ都市部でもblock partyは地域社会を結びつける場として存在しており、人口密度の高い地域ではこうした街区単位のパーティー文化が発達していた。
Hip-Hopは、その既存の都市文化をさらにDJ中心の音楽文化へ変えていった。
ここでKingstonとの接続が見えてくる。
Kingstonではsound systemが音楽を街へ持ち出した。
New YorkではDJがレコードを街へ持ち出した。
KingstonではDubが録音を分解した。
New YorkではDJがbreakを切り出した。
つまり、Hip-Hopの革命は「新しい楽器を発明した」ことではない。
すでに存在していた録音を、新しい都市の使い方で再利用したことにある。
これはサンプリング文化の原型でもある。
さらにHip-Hopは、音楽だけではなかった。
MC。
DJ。
Breaking。
Graffiti。
そしてファッション。
都市生活の複数の表現が一つの文化に接続した。
ここでも都市が重要になる。
街では音楽を聴くだけではなく、踊ることができる。
壁に絵を描くことができる。
服を着ることで自分を表現できる。
マイクで言葉を発することができる。
都市の公共空間が文化のキャンバスになる。
Hip-Hopが世界へ広がった後も、この構造は残った。
サンプリング。
DJ。
ストリート。
ダンス。
ファッション。
言葉。
それらを組み合わせることで、新しい地域のHip-Hopが作られていく。
東京でも。
Lagosでも。
Johannesburgでも。
Berlinでも。
都市が変われば、Hip-Hopも変わる。
New Yorkが生み出したHip-Hopの核心は、巨大都市に存在する既存の音を、若者が自分たちの文化へ再編集できるという発想だった。
Tokyo — 巨大都市は音楽を「消費」するだけではない
Tokyoは、ここまでの都市とは少し違う。
DetroitやManchesterのような工業都市の衰退だけで説明することはできない。
Berlinのような政治的分断だけでもない。
Kingstonのような小規模な島国の首都という条件とも違う。
Tokyoの特徴は、巨大な人口、鉄道網、消費文化、メディア産業、レコード産業、電子機器産業、クラブ文化が高度に接続していることにある。
そのためTokyoの音楽は、「都市をどう感じるか」という問題と強く結びついてきた。
1970年代から1980年代に発展したCity Popは、その代表例である。
City Popは単純なジャンルではない。
Funk。
Soul。
Disco。
R&B。
Jazz Fusion。
AOR。
Soft Rock。
電子音楽。
さまざまな音楽要素が組み合わされている。
その背景には、日本の経済成長と都市生活の変化があった。
自動車。
FMラジオ。
カセット。
Walkman。
高性能なステレオ。
大型レコード店。
高級なスタジオ。
こうした新しい消費環境が音楽の作り方と聴き方を変えた。
研究者によるCity Pop研究でも、この音楽は都市生活者の感覚や東京を象徴する都市的イメージと結びついて論じられている。
重要なのは、City Popが必ずしも現実のTokyoをそのまま描いたわけではないことだ。
むしろ、都市で暮らす人間が想像する都市だった。
夜。
高速道路。
海。
ホテル。
バー。
ネオン。
高層ビル。
車。
FMラジオ。
それは都市の現実そのものというより、都市生活が作り出した「理想化された都市のイメージ」だった。
だからCity Popは、都市を直接歌っているようで、実は都市に対する欲望を歌っていたとも考えられる。
そして1990年代になると、TokyoではShibuya-keiが登場する。
Shibuya-keiは、渋谷のレコード店やクラブ、若者文化と深く結びついた音楽ムーブメントだった。
Pizzicato Five。
Flipper’s Guitar。
Cornelius。
それぞれ異なる音楽性を持ちながら、過去のポップ音楽を大胆に再利用した。
フレンチ・ポップ。
Bossa Nova。
Jazz。
Lounge。
The Beach Boys。
British Pop。
Hip-Hop。
House。
Madchester。
Electronica。
こうした世界中の音楽が東京のレコード店に集まり、それを若い音楽家たちが選び直した。
ここで面白いのは、Tokyoが「音楽の発祥地」である必要がなかったことだ。
Tokyoは世界中の音楽を集める都市だった。
そして集めた音楽を再編集する都市だった。
Shibuyaのレコード店文化では、輸入盤や過去の音源を探すことそのものが音楽活動の一部になっていた。1990年代にはShibuya周辺に多くのレコード店が集まり、HMV、Tower Records、Manhattan Records、ZESTなどが音楽情報の重要な拠点となった。
つまりTokyoの音楽文化は、「ゼロから新しい音を作る」だけではない。
世界中から音を集める。
分類する。
比較する。
買う。
聴く。
サンプリングする。
再構成する。
そして別の形で世界へ返す。
この都市的な編集能力は、インターネット時代になるとさらに強くなる。
City Popが2010年代以降、海外のオンライン・コミュニティやYouTubeなどを通じて再発見されたことは、その象徴である。
Tokyoは世界の音楽を輸入する都市であると同時に、世界から集めた音楽を再編集して新しい都市文化へ変換する都市だった。
八都市を一本につなぐと何が見えてくるのか
ここまでDetroit、Berlin、Manchester、Lagos、Johannesburg、Kingston、New York、Tokyoを見てきた。
一見すると、まったく別の歴史である。
Motown。
Techno。
Acid House。
Afrobeat。
Kwaito。
Reggae。
Hip-Hop。
City Pop。
ジャンルも違う。
言語も違う。
政治状況も違う。
経済状況も違う。
しかし、都市という視点から見ると、いくつかの共通点が浮かび上がる。
まず「移動」である。
Detroitには南部からの人口移動があった。
Kingstonにはカリブ海とアメリカを含む文化的な交流があった。
New Yorkには世界中から移民が集まった。
Lagosにはアフリカ大陸内外の文化が流れ込んだ。
Berlinには東西の人間と文化が再接続した。
音楽は人間が移動すると一緒に移動する。
次に「技術」。
Motownでは録音技術と大量生産型の制作システムが重要だった。
Kingstonではsound systemとDubの技術が重要だった。
New Yorkでは2台のターンテーブルがbreakを再構成した。
Detroitではシンセサイザーとドラムマシンが重要だった。
Tokyoでは電子楽器とスタジオ技術が音楽制作を変えた。
技術は音楽を変える。
しかし、技術だけでは新しい音楽は生まれない。
重要なのは、その技術を使う人間がどの都市にいるかである。
三つ目は「空間」。
Berlinの廃墟。
ManchesterのHaçienda。
Kingstonのsound system dance。
New Yorkのblock party。
Johannesburgのtownship。
Tokyoのレコード店とクラブ。
これらはすべて音楽の「会場」ではない。
文化を生産する場所だった。
そして四つ目が「経済」。
音楽は常に経済と無関係ではない。
Motownはレコード産業として成功した。
ManchesterのFactoryは音楽と都市文化を結びつけた。
Berlinのクラブ文化は観光と商業化の問題を抱えた。
TokyoのCity Popは高度消費社会のイメージと結びついた。
音楽が都市文化になると、そこには必ず商業化の問題が入ってくる。
最後が「記憶」である。
都市は過去の音楽を記憶する。
DetroitはMotownとTechnoを記憶する。
ManchesterはFactoryとHaçiendaを記憶する。
Berlinは壁とTechnoを記憶する。
KingstonはReggaeを記憶する。
New YorkはHip-Hopを記憶する。
TokyoはCity PopやShibuya-keiを記憶する。
そして、その記憶が観光、博物館、レコード再発、フェスティバル、YouTube、ドキュメンタリーなどを通じて再利用される。
八都市をつなぐと、音楽史はジャンルの誕生史ではなく、人間、技術、空間、産業が都市の中で何度も再結合してきた歴史として見えてくる。
DetroitからBerlinへ — Technoは大西洋を越えて意味を変えた
この八都市を一つの線で結ぶなら、DetroitとBerlinの関係は特に重要である。
Detroit Technoはアメリカの工業都市から生まれた。
その音楽がヨーロッパへ渡った。
Berlinでは、それが1989年以降の都市空間に入り込んだ。
TresorはDetroit TechnoをBerlinで受け入れる重要な場所になった。DetroitのアーティストたちもBerlinへ行き、現地のクラブ文化と交流した。
ここで音楽の意味が変わる。
Detroitでは、Technoは未来を想像する音楽だった。
Berlinでは、未来が突然現実になった。
壁がなくなった。
都市が再接続した。
古い建物が新しい用途を持った。
その空間でDetroitの音楽が鳴る。
この組み合わせが、1990年代のBerlin Technoを作った。
つまり音楽は「輸出」されるだけではない。
移動した音楽は、現地の都市構造に組み込まれる。
その瞬間、音楽は別の意味を持つ。
この構造は世界中で繰り返される。
音楽が都市から都市へ移動するとき、ジャンルそのものが移動するのではなく、その都市に必要な意味が付け加えられていく。
ManchesterからTokyoへ — 都市は海外音楽を自分の言語に変える
TokyoとManchesterにも意外な接続がある。
1990年代のShibuya-keiは、海外の音楽を大胆に引用した。
その中にはManchesterのMadchesterやBaggyの影響も含まれていた。
Shibuya-keiの音楽家たちは、過去のポップ音楽と最新のDance Musicを同じ文脈で扱った。
Manchesterで生まれた音楽がTokyoへ入り、Tokyoのレコード店文化の中で再編集される。
ここには都市間ネットワークの本質がある。
音楽史は「Aという都市で生まれた音楽がBという都市へ広がった」という直線ではない。
AからBへ行く。
Bで変化する。
BからCへ行く。
Cでさらに変化する。
そして最終的には、元のAに戻ってくることさえある。
音楽は循環する。
都市から都市へ移動する音楽は、コピーではなく翻訳であり、その翻訳の回数だけ新しい音楽史が生まれる。
KingstonからNew Yorkへ — DJ文化は国境を越える
KingstonとNew Yorkの関係も重要である。
Kingstonではsound system文化が発達した。
DJがレコードを選ぶ。
観客を踊らせる。
音響設備そのものが文化の中心になる。
その後、ジャマイカ系移民がNew Yorkを含む北米都市へ移動する。
DJ文化も移動する。
そしてBronxの都市文化と接続する。
DJ Kool Herc自身もジャマイカ出身であり、ジャマイカのsound system文化の経験を持っていた。
Bronxで彼が行ったbreakの延長は、こうした文化的背景ともつながっている。
ここから考えるとHip-Hopは突然ゼロから誕生したのではない。
ジャマイカのsound system文化。
アメリカのFunk。
Soul。
Disco。
New Yorkのblock party。
Bronxの都市環境。
これらが接続した結果だった。
音楽の歴史を都市単位で見ると、ジャンルの「純粋な起源」を探すことが難しくなる。
むしろ、起源そのものが複数あることが見えてくる。
Hip-HopはNew Yorkだけの発明でもKingstonだけの発明でもなく、移民と都市文化と既存音楽が一つの街で接続した結果として成立した。
LagosからJohannesburgへ — アフリカの都市音楽は一つではない
アフリカの音楽を一括して「African Music」と呼ぶと、都市ごとの違いが見えなくなる。
LagosとJohannesburgは同じ大陸にある。
しかし歴史は大きく異なる。
Lagosでは、西アフリカの音楽、植民地支配後の社会、政治、都市化がAfrobeatなどに影響を与えた。
Johannesburgでは、アパルトヘイトとtownship文化、南アフリカの独自の音楽史が都市文化を形成した。
それでも両都市には共通点がある。
海外から音楽が入ってくる。
それを都市の若者が受け取る。
地元の言語で歌う。
地元のリズムを加える。
地元の政治や生活を語る。
その結果、海外から来た音楽は別のものになる。
この現象は現在のAfrobeatsやAmapianoにもつながっている。
音楽のグローバル化とは、世界中が同じ音楽を聴くことではない。
むしろ、同じ音楽が世界中の都市で別々の形に変化することである。
アフリカの都市音楽を理解する鍵は「アフリカらしさ」ではなく、それぞれの都市が何を受け取り、何を変えたのかを見ることにある。
都市は音楽を生むだけでなく、ジャンルを消費する
ここで一つ重要な問題がある。
都市は新しい音楽を作る場所である一方、古い音楽を消費する場所でもある。
レコード店。
ラジオ。
クラブ。
フェスティバル。
レコード会社。
音楽出版社。
新聞。
雑誌。
テレビ。
現在ではYouTubeやストリーミングサービス。
都市には音楽を発見する場所が多い。
そのため、新しいジャンルが都市に入る速度は速い。
そして都市は、過去の音楽を保存する。
TokyoでCity Popが再発見された。
BerlinではTechno文化が都市の歴史として語られる。
ManchesterではFactory RecordsとHaçiendaが文化遺産として扱われる。
KingstonではReggaeが都市のアイデンティティとして位置づけられる。
DetroitではMotownとTechnoが都市の重要な文化資産になっている。
このとき音楽は「現在の文化」から「過去の文化」へ変わる。
しかし、その過去が再び若者に使われる。
City Popは2010年代以降、インターネットを通じて海外で再発見された。
古い録音が新しい世代の音楽制作に使われる。
サンプリングされる。
リミックスされる。
映像作品に使われる。
つまり音楽史は直線ではない。
過去が未来を作る。
都市はその循環の中継地点になる。
都市の音楽文化は、新しい音楽を作る場所であると同時に、過去の音楽を未来へ送り直す巨大な記憶装置でもある。
都市が変われば、音楽の速度も変わる
都市にはそれぞれ違う時間感覚がある。
Tokyoは高速である。
鉄道が時間通りに動く。
人間が大量に移動する。
情報が高速で流れる。
広告が更新される。
消費が速い。
その都市から生まれた音楽には、精密な制作、情報量の多いアレンジ、洗練された音響が現れやすい。
一方でBerlinには、1990年代に巨大な空間が存在した。
空き建物。
廃墟。
長時間営業するクラブ。
その環境では、音楽を長く聴くことが可能だった。
Technoは短いポップソングではなく、何時間も続く体験として機能する。
Manchesterでは、工業都市の衰退と若者文化が結びついた。
その結果、Post-PunkからDance Musicへ急速な変化が起きた。
Kingstonでは、sound systemの競争が音楽の変化を加速させた。
New Yorkでは、DJが既存録音を細かく切り取り、ダンスフロアの反応を見ながら構成を変えた。
都市の速度は音楽の速度に影響する。
もちろん、これは単純な因果関係ではない。
しかし、都市環境と音楽の時間感覚が重なることは多い。
音楽のテンポや反復だけを見るのではなく、その音楽が鳴っていた都市の時間感覚を見ると、なぜその音楽がその形になったのかが見えやすくなる。
都市は音楽を「音」に変える
ここまでの八都市を比較すると、都市はそれぞれ異なるものを音楽へ変換している。
Detroitは産業を音楽へ変えた。
Berlinは分断と再統合を音楽へ変えた。
Manchesterは産業衰退を音楽へ変えた。
Lagosは政治と都市化を音楽へ変えた。
Johannesburgは社会的分断と解放を音楽へ変えた。
Kingstonは音響システムとコミュニティを音楽へ変えた。
New Yorkは人口密度とストリート文化を音楽へ変えた。
Tokyoは消費社会と情報過多を音楽へ変えた。
この違いが、それぞれの都市の音楽を特徴づける。
もちろん、これは単純化である。
Detroitにも政治がある。
Berlinにも移民がいる。
Tokyoにも貧困がある。
New Yorkにも工業史がある。
Lagosにもテクノロジーがある。
都市は一つの要素だけで説明できない。
むしろ複数の条件が重なったとき、音楽が変わる。
だから都市音楽史では、「このジャンルは何から生まれたのか」という問いだけでは足りない。
「誰がいたのか」。
「どこに住んでいたのか」。
「何を聴いていたのか」。
「何を使えたのか」。
「どこで踊ったのか」。
「何が禁止されていたのか」。
「どんな産業があったのか」。
「何がなくなったのか」。
こうした質問を重ねる必要がある。
都市は一つの原因ではない。無数の条件を同時に重ね、その結果として音楽の形を変える環境そのものである。
都市音楽史年表
| 年代 | 都市 | 出来事 | 音楽的意味 |
|---|---|---|---|
| 1930s以降 | Detroit | 黒人ゴスペル文化が発展 | 後のR&B・Soul文化の土台 |
| 1950s | Kingston | Sound System文化が都市部で発展 | DJ中心の音楽文化 |
| 1950s | Detroit | Motown形成の基盤が整う | 都市型ポップ音楽の制作システム |
| 1950s–60s | Kingston | Skaが発展 | ジャマイカ独立期の都市音楽 |
| 1960s | Detroit | Motown黄金期 | SoulとPopの融合 |
| 1960s | Kingston | RocksteadyからReggaeへ | ベース中心の音楽構造 |
| 1970s | New York | BronxのBlock Party文化 | Hip-Hop形成の環境 |
| 1973 | New York | DJ Kool HercのBronxパーティー | Break中心のDJ文化 |
| 1970s | Lagos | Fela KutiのAfrobeatが発展 | 音楽と政治の結合 |
| 1970s–80s | Tokyo | City Popが発展 | 都市消費社会のサウンド |
| 1980s | Detroit | Detroit Techno形成 | 電子音楽と工業都市の結合 |
| 1982 | Manchester | Haçienda開業 | クラブ文化の拠点 |
| 1980s | Johannesburg | Township音楽文化が発展 | 都市と社会分断の音楽 |
| 1989 | Berlin | Berlin Wall崩壊 | クラブ文化の空間拡大 |
| 1990s | Berlin | TresorなどがTechno文化を形成 | Detroit Technoの再解釈 |
| 1990s | Manchester | Madchester文化 | Houseとロック文化の融合 |
| 1990s | Johannesburg | Kwaitoが発展 | ポスト・アパルトヘイト世代の都市音楽 |
| 1990s | Tokyo | Shibuya-keiが発展 | 世界音楽の再編集 |
| 1997 | Berlin | Love Paradeに約150万人 | Technoの巨大都市イベント化 |
| 2010s以降 | Tokyo | City Popが海外で再発見 | インターネット時代の再評価 |
八都市の比較
| 都市 | 主な都市条件 | 代表的な音楽文化 | 音楽へ変換されたもの |
|---|---|---|---|
| Detroit | 自動車産業・人口移動 | Motown / Techno | 工業・未来 |
| Berlin | 分断・再統合・空き空間 | Techno | 自由・空間 |
| Manchester | 工業化・産業衰退 | Post-Punk / Madchester | 都市の再生 |
| Lagos | 都市化・政治・西アフリカ文化 | Afrobeat | 政治・都市生活 |
| Johannesburg | アパルトヘイト・Township | Kwaito | 分断と解放 |
| Kingston | Sound System・島嶼都市文化 | Ska / Reggae / Dub | 音響・コミュニティ |
| New York | 人口密度・移民・ストリート文化 | Hip-Hop | 都市生活 |
| Tokyo | 消費社会・電子技術・情報流通 | City Pop / Shibuya-kei | 都市の欲望・情報 |
八都市は異なる音楽を作ったが、どの都市でも音楽は都市生活の条件を別の形へ翻訳する役割を果たしていた。
都市は「ジャンル」を作るのか
ここで最初の問いに戻る。
都市そのものが音楽を作るのか。
答えは、YesでもありNoでもある。
都市には意思がない。
Detroitが「Technoを作ろう」と決めたわけではない。
Berlinが「世界最大級のクラブ文化を作ろう」と決めたわけでもない。
Manchesterが「音楽で都市イメージを変えよう」と最初から計画したわけではない。
Lagosが「Afrobeatを世界へ輸出しよう」と都市全体で決めたわけでもない。
音楽を作ったのは人間である。
しかし、その人間たちが出会う場所、使える技術、移動できる範囲、住んでいる空間、働いている産業、受けている政治的圧力、アクセスできるメディアは都市によって違う。
その違いが、音楽を変える。
だから正確には、
「都市が音楽を作る」
というより、
「都市が音楽を作る条件を作る」
と考えたほうがいい。
そして、その条件は固定されていない。
産業が変わる。
人口が変わる。
建物が壊される。
鉄道が伸びる。
クラブが閉まる。
レコード店がなくなる。
新しいメディアが生まれる。
スマートフォンが普及する。
音楽の作り方が変わる。
そのたびに都市の音も変わる。
だから音楽都市は永遠ではない。
Detroitの音楽も変わった。
Manchesterの音楽も変わった。
Berlinのクラブ文化も変わった。
Tokyoのレコード文化も変わった。
それでも過去の音楽は残る。
そして、その音楽が新しい世代によって再利用される。
都市は変わる。
音楽も変わる。
しかし、過去の都市の音が未来の都市へ移動していく。
都市は音楽を直接作るのではない。人間が音楽を作るための条件を作り、その条件が変わるたびに新しい音楽の可能性を生み出していく。
How Cities Create Music
Detroitから始まった音楽の物語はBerlinへ渡る。
BerlinからManchesterへ。
ManchesterからTokyoへ。
KingstonからNew Yorkへ。
New Yorkから世界へ。
LagosからJohannesburgへ。
Johannesburgから再び世界へ。
この線は、地図上の一本の直線ではない。
むしろ巨大なネットワークである。
音楽は都市から都市へ移動する。
移動すると変わる。
変わった音楽が別の都市へ移動する。
そこでさらに変わる。
その繰り返しによって、現代の音楽史が形成されてきた。
だから「Detroit Techno」「Berlin Techno」「Manchester House」「Lagos Afrobeat」「Johannesburg Kwaito」「Kingston Reggae」「New York Hip-Hop」「Tokyo City Pop」という名前を見るとき、それを単なるジャンル名として扱う必要はない。
その名前の中には都市の歴史が入っている。
工場。
移民。
港。
高速道路。
集合住宅。
廃墟。
クラブ。
レコード店。
教会。
市場。
学校。
政治。
広告。
ラジオ。
テレビ。
ターンテーブル。
シンセサイザー。
スピーカー。
そして、そこにいた人間たち。
音楽はそれらすべての結果として鳴っている。
都市が変われば、人間の生活が変わる。
人間の生活が変われば、音楽の使われ方が変わる。
音楽の使われ方が変われば、音楽そのものが変わる。
だから音楽史を知るために、必ずしも楽器だけを見る必要はない。
地図を見る。
工場を見る。
鉄道を見る。
移民を見る。
住宅を見る。
クラブを見る。
レコード店を見る。
都市の夜を見る。
そうすると、あるリズムがなぜそこで生まれたのかが少しずつ見えてくる。
そして最後に残るのは、単純な答えではない。
DetroitがTechnoを作った。
BerlinがTechnoを世界化した。
ManchesterがHouseをロック文化へ接続した。
KingstonがDJとDubの文化を育てた。
New YorkがHip-Hopを作った。
LagosがAfrobeatを政治的な都市音楽へ変えた。
JohannesburgがHouseをKwaitoへ変えた。
Tokyoが世界中の音楽を都市的なポップへ再編集した。
そうした個別の物語のすべてをつなぐと、音楽は都市の鏡であるだけではないことが分かる。
音楽は都市が自分自身を理解するための方法でもある。
工業都市は機械をリズムに変えた。
分断都市は自由をダンスに変えた。
衰退都市は記憶を文化に変えた。
政治都市は怒りをグルーヴに変えた。
移民都市は異なる文化を混ぜた。
消費都市は欲望をサウンドに変えた。
そして、その音楽が都市を再び変える。
ここに、都市と音楽の循環がある。
音楽は都市から生まれ、都市を記録し、そしてその音楽によって都市自身が再び語り直される。
参考として見るべき都市音楽の連鎖
DetroitのMotownからDetroit Technoへ。
Detroit TechnoからBerlinへ。
BerlinのTechnoからManchesterや世界各地のクラブ文化へ。
KingstonのSound SystemからDubへ。
Dubの発想からHip-HopのDJ文化へ。
New YorkのHip-Hopから世界各地の都市型音楽へ。
LagosのAfrobeatから現代アフリカ音楽へ。
JohannesburgのHouse文化からKwaito、そして後の南アフリカのダンス音楽へ。
TokyoのCity PopからShibuya-kei、そしてインターネット時代の再発見へ。
こうした流れを見ると、音楽史は「ジャンルAの次にジャンルBが生まれた」という単純な年表ではなくなる。
むしろ、都市と都市の間を音が移動し続ける歴史になる。
都市音楽史とは、世界中の都市が互いの音を受け取り、それぞれの生活条件によって別の音へ変えていく歴史である。
終わりに — 次の音楽都市はどこなのか
Detroit。
Berlin。
Manchester。
Lagos。
Johannesburg。
Kingston。
New York。
Tokyo。
これらの都市には、それぞれ異なる音楽史がある。
しかし、共通しているのは、音楽が都市の「中心」からだけ生まれたわけではないことだ。
工場の裏側。
集合住宅。
地下室。
路上。
廃墟。
小さなレコード店。
クラブ。
教会。
市場。
学校。
そこに音楽があった。
そして、都市の変化によって、その音楽も変わった。
現在の世界では、音楽制作のコストは以前より下がっている。
誰でもコンピューターで曲を作れる。
インターネットによって、遠く離れた都市の音楽を瞬時に聴ける。
だから、都市の役割はなくなったようにも見える。
しかし実際には逆かもしれない。
オンラインで音楽を共有できるようになったからこそ、リアルな都市空間が別の意味を持ち始めている。
誰と会うのか。
どこで踊るのか。
どこでレコードを買うのか。
どこでライブを見るのか。
どこにスタジオがあるのか。
どの地域に新しい移民が集まっているのか。
どの建物が空いているのか。
どの都市に若者が集まっているのか。
そうした条件は、依然として音楽を変える。
次の巨大な音楽都市がどこになるのかは分からない。
だが、その都市を見つける方法はある。
そこに、異なる人間が集まっているか。
新しい技術を使えるか。
安く使える空間があるか。
音楽を聴く場所があるか。
既存の文化と新しい文化が衝突しているか。
そして、まだ誰も名前を付けていない音が鳴っているか。
もしそれが存在するなら、その都市ではすでに新しい音楽史が始まっている。
都市の名前がまだジャンル名になっていないだけだ。
次の音楽革命は、まだ「ジャンル」と呼ばれていないどこかの都市で、すでに鳴り始めているのかもしれない。