【コラム】 なぜインターネットは「真面目さ」を失いつつあるのか

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【コラム】 なぜインターネットは「真面目さ」を失いつつあるのか

なぜインターネットでは、真面目さよりも不条理さ、皮肉、brain rot、AI slopが強くなったのか

文:mmr|テーマ:情報、広告、AI、ミーム、音楽、ファッションまでが「意味のあるもの」を要求し続ける時代に、なぜ人々は不条理やくだらなさを選び始めたのか。2026年のインターネット文化を、真面目さへの疲労と人間らしさの再発見から読み解く

かつてインターネットには、「何かを伝える」というかなり真面目な目的があった。

ニュースを読む。

レビューを書く。

音楽について語る。

映画について議論する。

自分の考えをブログに書く。

写真をきれいに撮る。

プロフィールを整える。

もちろん、昔のインターネットにもくだらないものは大量にあった。

猫の画像もあった。

意味のない掲示板もあった。

変なGIFもあった。

しかし、2020年代半ばから、その「くだらなさ」の意味が少し変わった。

今では、意味がないことそのものがコンテンツになる。

意味不明な数字。

意味不明なキャラクター。

意味不明なAI画像。

意味不明な音声。

意味不明なダンス。

意味不明なコメント。

そして、意味を説明しようとした瞬間に、その面白さが消えてしまうようなミーム。

「6-7」のような数字の反復が巨大な文化現象になる。

AIで生成された奇妙な人物や動物が、現実には存在しない物語を持つ。

「brain rot」という言葉が、単なるネットスラングではなく、デジタル文化そのものを説明する言葉になる。

Oxford University Pressは2024年のWord of the Yearに「brain rot」を選び、2025年には「AI slop」という言葉が大量生成される低品質なAIコンテンツを表す言葉として広く使われるようになった。

2026年には、こうした現象そのものが研究対象になっている。

つまり、これは単なる「最近の若者はくだらない」という話ではない。

もっと大きな変化が起きている。

それは、

「意味があること」そのものに対する疲労である。

情報が多すぎる。

ニュースが多すぎる。

意見が多すぎる。

専門家が多すぎる。

広告が多すぎる。

自己改善の方法も多すぎる。

そして、すべてが「あなたに何かをさせよう」としている。

だから人々は、ときどき逆方向へ逃げる。

役に立たないもの。

説明できないもの。

目的のないもの。

少し馬鹿げているもの。

何の教訓もないもの。

そこに、妙な解放感が生まれる。

インターネットから「意味」が消えたのではなく、意味を要求され続けることに対する反動として、意味のないものが文化になり始めたのである。


「真面目であること」は、いつからこんなに疲れるものになったのか

インターネットは長い間、自己表現の場所だった。

ブログでは、自分の考えを書く。

SNSでは、自分の生活を見せる。

YouTubeでは、自分の知識を共有する。

Instagramでは、自分の世界観を作る。

LinkedInでは、自分のキャリアを演出する。

TikTokでは、自分の個性を見せる。

しかし、SNSが生活の中心に近づくほど、自己表現は単純な表現ではなくなっていった。

「どう見られるか」が重要になる。

写真を投稿するなら、きれいに撮る。

文章を書くなら、賢そうに書く。

仕事をするなら、充実しているように見せる。

旅行するなら、特別な場所に行ったように見せる。

音楽を聴くなら、センスがあるように見せる。

服を着るなら、トレンドを理解しているように見せる。

つまり、

オンライン上の生活そのものが、小さなプレゼンテーションになった。

この状態では、真面目さは単なる態度ではない。

努力になる。

プロフィールを整える。

言葉を選ぶ。

写真を加工する。

自分の趣味を説明する。

自分の政治的立場を示す。

自分が何を支持しているかを明確にする。

何を知らないかを知られないようにする。

何を好きなのかを説明する。

そして、何よりも「自分がちゃんとしている人間である」ことを示し続ける。

その結果、インターネットには奇妙な矛盾が生まれた。

自由な自己表現のために作られた空間が、

「ちゃんとした自分」を演じる空間になった。

そこで突然、意味不明なミームが強くなる。

「これは何?」

と聞かれても、

「知らない」

で終わる。

それが気持ちいい。


ミームは「意味」ではなく「共有」を作る

ミームの重要な特徴は、情報として理解する必要がないことだ。

ニュースは理解しなければならない。

解説動画も理解しなければならない。

レビューも理解しなければならない。

しかしミームは、必ずしも理解する必要がない。

「知っているか、知らないか」。

その境界だけで成立する。

ある画像を見て笑う。

ある音を聞いて反応する。

ある数字を言う。

あるキャラクターを知っている。

それだけでいい。

2025年にTikTokで大きく広がった「6-7」は、その象徴的な例になった。

もともとはSkrillaの楽曲「Doot Doot」に由来するフレーズが、LaMelo Ballの身長との関連などを通じてTikTok上で反復され、意味を説明しにくい掛け声へと変化していった。

2025年にはDictionary.comが「6-7」をWord of the Yearに選んでいる。

ここで重要なのは、6と7という数字自体に深い意味があったわけではないことだ。

むしろ、

意味が薄いからこそ、参加できた。

説明を必要としない。

正解もない。

専門知識もいらない。

ただ知っている。

そして知っていることを示す。

これは文化の最も原始的な機能の一つでもある。

「私たちはこれを知っている。」

「あなたも知っている。」

その瞬間、二人の間に小さな共同体ができる。

だからミームは、情報よりも強くなることがある。

情報は知識を増やす。

ミームは所属感を作る。

ミームの価値は、何を意味するかではなく、「誰と共有しているか」に移り始めている。


「brain rot」は本当に知性の低下なのか

「brain rot」という言葉は、一見すると非常に否定的だ。

直訳すれば「脳が腐る」。

短く、刺激的で、少し馬鹿げている。

しかし2026年の研究では、brainrotを単純な認知能力低下として扱う見方に疑問が呈されている。

Gen Zを対象にした質的研究では、brainrotコンテンツには、逃避、美的体験、社会的結束、そして生産性への反発といった複数の機能があることが示されている。

特に興味深いのが、

「anti-gratification」

という考え方だ。

普通のデジタルコンテンツは、何かを与えようとする。

役立つ情報。

ニュース。

知識。

モチベーション。

美容の方法。

仕事の方法。

投資の方法。

勉強法。

筋トレ。

料理。

旅行。

自己改善。

しかしbrainrotは逆方向へ行く。

「何も学ばなくていい。」

「何も達成しなくていい。」

「何も改善しなくていい。」

「ただ見ればいい。」

もちろん、これはbrainrotが必ずしも健康的だという意味ではない。

過剰なスクロールや刺激の連続には別の問題もある。

重要なのは、

人々が意味のないコンテンツを選ぶ理由を、単純な知性の低下だけでは説明できない

ということだ。

これは非常に大きな違いである。

なぜなら、意味のないものを選ぶ行動そのものが、

「意味のあることを要求され続ける生活」

への反応である可能性があるからだ。


AIは「意味のなさ」を大量生産できるようにした

ここで生成AIが入ってくる。

以前、意味不明な画像を作るには人間の手間が必要だった。

絵を描く。

画像を加工する。

動画を編集する。

音声を録音する。

字幕を入れる。

キャラクターを作る。

しかし生成AIによって、そのコストが大きく下がった。

「エビの頭を持った宗教的な人物を作って」

「バナナと戦う宇宙飛行士を作って」

「イタリア語っぽい意味不明なナレーションをつけて」

そうした指示から、数分以内に奇妙なコンテンツを作れる。

2025年には「Italian Brain Rot」と呼ばれるAI生成のシュールなキャラクター群がTikTokなどで広がった。

Ballerina Cappuccina。

Tralalero Tralala。

Bombardiro Crocodilo。

名前からして説明すること自体が難しい。

しかし、それこそが重要だった。

生成AIは、

「意味のないものを作るコスト」を劇的に下げた。

そしてアルゴリズムは、意味があるかどうかよりも、ユーザーが止まったか、見たか、共有したか、コメントしたかを評価する。

すると、

「これは何なんだ?」

という感情そのものが、エンゲージメントになる。

理解できない。

だから止まる。

止まる。

だから見る。

見る。

だからアルゴリズムがさらに広げる。

その結果、

意味のなさが、配信上の競争力になる。

これはインターネット文化のかなり大きな転換である。


AI slopは「くだらない画像」だけの問題ではない

AI slopという言葉は、単に「変なAI画像」を意味するわけではない。

2026年には、この言葉は低品質で大量生産されるAIコンテンツ全般を指すものとして使われるようになった。

重要なのは、その問題が「AIが下手だから」ではない。

むしろ逆だ。

AIによって、

大量に作れるようになったこと

が問題になる。

以前なら一つの奇妙な動画を作るだけでも時間がかかった。

今は大量に作れる。

その結果、コンテンツの価値と制作コストの関係が変わった。

一本一本に意味を持たせる必要がなくなる。

100本作って、1本が当たればいい。

1000枚作って、数枚が拡散すればいい。

この構造では、コンテンツは作品というより、

注意を捕まえるための弾薬

に近くなる。

そして人間側もそれに適応する。

「完成度が高いから見る」のではなく、

「何だこれ?」

だから見る。

この「何だこれ?」は、現在のインターネットで非常に強い感情になっている。


コメディは「笑わせる」より「説明できなくする」方向へ進んだ

コメディにも似た変化が起きている。

伝統的なジョークには構造がある。

設定。

期待。

展開。

オチ。

しかしインターネットのミームでは、オチが存在しないことがある。

突然終わる。

関係ない画像が出てくる。

意味のない字幕が入る。

音だけが大きくなる。

人物が突然踊る。

画質が悪くなる。

そして終わる。

これは「anti-joke」に近い。

笑いの理由を説明する必要がない。

むしろ説明した瞬間に面白くなくなる。

この構造は、インターネットという環境と相性がいい。

なぜなら、ユーザーは毎日大量のコンテンツを見ているからだ。

普通のジョークは、構造を理解してもらうために時間が必要になる。

しかし、不条理は一瞬で成立する。

「え?」

この一秒が重要になる。

スクロールしていた指が止まる。

それだけでいい。

だから、

不条理はアルゴリズム時代の非常に効率的なコメディになった。


ダークユーモアは「笑ってはいけないもの」を笑うことで成立する

もう一つ重要なのがdark humorである。

ダークユーモアは新しいものではない。

ブラックコメディは何十年も存在している。

しかしTikTokやミーム文化では、その形式がさらに高速化した。

不安。

孤独。

失敗。

仕事。

社会問題。

死。

経済的不安。

人間関係。

それらを、そのまま語るのではなく、

ミームに変換する。

これは単純な「不謹慎」だけでは説明できない。

2025年に発表されたTikTokのダークユーモア研究では、若者がミーム形式を通じて、恐怖や社会的な問題を処理し、批判し、共有する方法が分析されている。

つまり笑いは、問題を否定するためだけに使われているわけではない。

問題を扱うためにも使われる。

「怖いから笑う。」

「つらいから笑う。」

「自分だけではないと分かるから笑う。」

「深刻すぎるから、一度ふざける。」

ここに、現代のユーモアの重要な特徴がある。

真面目に話すことと、真面目に考えることは同じではない。

ふざけた形式でも、そこには社会的な意味が存在する。


音楽も「深刻さ」から逃げている

この変化は音楽にも見える。

音楽史を振り返ると、重要な音楽運動にはしばしば「真剣さ」があった。

パンク。

ヒップホップ。

テクノ。

ハウス。

ノイズ。

インダストリアル。

グランジ。

それぞれのシーンには、音楽だけではなく、

「どう生きるか」

という態度が含まれていた。

しかし、インターネット時代の音楽消費では、楽曲が必ずしも「作品」としてだけ受け取られない。

15秒の音源。

TikTokで使われる一部分。

速度変更。

リミックス。

マッシュアップ。

ミーム化。

ダンス。

サウンドエフェクト。

音楽は、巨大な意味体系から切り離されて、小さな文化的部品になる。

これは音楽の価値が下がったという意味ではない。

むしろ逆だ。

音楽が別の文脈へ移動できるようになった。

一つの曲が、

ダンスにもなる。

ジョークにもなる。

ファッションにもなる。

ゲームにもなる。

ミームにもなる。

広告にもなる。

そして、その過程で曲そのものよりも、

「この音を知っている」

という共有感覚が重要になる。

音楽は意味を伝えるものから、

文化的な合図

へ変化する場合がある。


ファッションは「ちゃんとしたスタイル」を壊し始めた

ファッションにも同じ現象がある。

従来のファッションでは、

「この服は何系なのか」

が重要だった。

パンク。

ゴス。

ストリート。

プレッピー。

ミニマリズム。

スポーツ。

ラグジュアリー。

しかしSNSでは、ジャンルの境界が急速に混ざる。

わざとダサくする。

高級品と安い服を合わせる。

古い服を着る。

奇妙なアクセサリーを使う。

キャラクター商品を大人が身につける。

「正しい着こなし」をわざと壊す。

そこでは、

センスがあることを見せるより、センスについて知りすぎていることを笑う

ことが重要になる。

「これはダサいけど、だから着る。」

この態度は、完全な反ファッションではない。

むしろファッションを知っているからこそできる。

ルールを知らない人がルールを破るのと、

ルールを知った上で破るのでは意味が違う。

インターネットの「unseriousness」は、この二つ目に近い。


広告までふざけ始めた理由

最も面白いのは広告である。

広告は本来、非常に真面目なものだった。

商品を説明する。

メリットを伝える。

ブランドイメージを作る。

購買を促す。

しかし2020年代のSNS広告では、ブランド自身がミーム文化に参加するようになった。

奇妙な画像。

コメント欄での会話。

自虐。

流行音源。

意図的に低品質な編集。

内輪ネタ。

ブランドアカウントなのに、ブランドらしく振る舞わない。

2026年のAdobeのクリエイティブトレンドでも、「Surreal Silliness」が独立したトレンドとして取り上げられている。

つまり、

広告の世界でも「真面目に見えること」より「人間っぽく見えること」が重要になっている。

TikTokも2026年のトレンド予測で、ユーモア、humanity、imperfection、communityを重視している。

これは偶然ではない。

ユーザーは広告を見た瞬間、

「これは広告だ」

と分かる。

だから広告側は、

「広告に見えない広告」

を作ろうとする。

しかし、その結果として広告がミーム化する。

ミームが広告化する。

広告が再びミームになる。

境界線が消える。


「ブランドが面白い人を演じる」時代

ここには少し奇妙な問題がある。

ブランドが若者の言葉を使う。

ブランドがミームを使う。

ブランドが「分かっている」ように振る舞う。

しかしユーザーは、それが本物かどうかをすぐに判断する。

だから、

「ブランドが若者っぽく話す」

だけでは十分ではない。

むしろ、

「ブランドが無理して若者っぽく話している」

と感じた瞬間に逆効果になる。

2026年の広告業界では、こうした問題を避けるために、若年層のユーモアやインターネット文化を理解しようとする調査が増えている。

ここで重要なのは、現代のユーモアには文脈があるということだ。

単語を真似するだけでは成立しない。

ミームを知っている。

そのミームがどこから来たか知っている。

いつ使うと古いのか知っている。

誰が使うと面白くないのか知っている。

そして、

使わないことすら知っている。

これがインターネット文化の難しさである。


「unseriousness」は本当に真面目さの反対なのか

ここで、一つ重要な区別が必要になる。

unseriousnessは、

「何も考えていない」

こととは違う。

むしろ非常に計算されたunseriousnessも存在する。

例えば、意図的に低品質な映像を作る。

意図的に変なフォントを使う。

意図的にくだらない文章を書く。

意図的に商品を馬鹿にする。

意図的にブランドの権威を壊す。

これらはすべて、

「真面目に見えないための技術」

である。

つまり、

真面目さを捨てたように見えて、

真面目さをどう見せないかについては、非常に真剣なのである。

ここが面白い。


「アイロニー」がインターネットの共通言語になった

インターネット文化を理解する上で、ironyは非常に重要だ。

「本気なのか冗談なのか分からない。」

この状態が、現代のコンテンツでは頻繁に現れる。

好きなのか。

嫌いなのか。

本当に怒っているのか。

演技なのか。

ダサいと思っているのか。

ダサいから好きなのか。

本当に欲しいのか。

ネタとして欲しいのか。

この曖昧さが、コンテンツを長く生かす。

なぜなら、

解釈をユーザー側に残すからだ。

「これは何?」

という問いに、答えがない。

その結果、コメント欄が答えを作る。

そしてコメント欄そのものがコンテンツになる。

TikTokでは2025年にブランド動画へのコメント数が大きく増加したことも報告されている。

つまりコンテンツは、

動画だけでは完成しない。

コメント。

リアクション。

引用。

パロディ。

再編集。

それらを含めて完成する。


コメント欄が第二の作品になる

昔の広告では、作品は画面の中にあった。

今では違う。

動画が投稿される。

コメントが付く。

そのコメントが別の動画になる。

その動画がまたコメントを生む。

そして誰かが、

「このコメントが一番面白い」

と言ってスクリーンショットする。

つまり、

作品の中心が投稿者からコミュニティへ移動している。

これは「真面目さ」が弱くなった理由の一つでもある。

一人の作者が完成品を提示する文化では、作者の意図が重要になる。

しかしミーム文化では、作者の意図は出発点にすぎない。

ユーザーが勝手に変える。

切り取る。

再編集する。

誤解する。

わざと誤解する。

そして、それが新しい作品になる。

だから、

「正しい解釈」そのものが邪魔になることがある。


インターネットは「完成品」を嫌い始めた

ここから、さらに大きな変化が見えてくる。

完成度の高いコンテンツは、完成している。

しかしミームは未完成である。

誰かが続きを作れる。

別の人が改変できる。

コメントで参加できる。

だからミームには、

余白

がある。

2026年上半期の日本のSNS分析でも、既存テンプレートをそのまま消費する「消費型ミーム」から、ユーザー自身が変数を加える「編集型ミーム」へのシフトが報告されている。

これは重要だ。

ユーザーは単にコンテンツを見るだけではなく、

コンテンツをいじりたい。

自分のバージョンを作りたい。

そこに自分を入れたい。

つまり、インターネット文化は、

「作品を鑑賞する文化」

から、

「作品を改造する文化」

へ進んでいる。


「意味がない」から参加できる

高度な知識が必要なコンテンツには、参加条件がある。

音楽評論なら音楽史を知らなければならない。

映画批評なら映画史を知らなければならない。

政治の議論なら制度を知らなければならない。

しかし意味不明なミームには、参加条件がない。

「なんとなく面白い」

だけで参加できる。

そして、その「なんとなく」が文化になる。

これは非常に民主的でもある。

専門家でなくてもいい。

文章がうまくなくてもいい。

映像制作の知識もいらない。

ただ、

「これを見た」

と言える。

そこから改変できる。

この意味で、unseriousnessは単なる逃避ではない。

参加のハードルを下げる文化装置

にもなっている。


「本気で好き」と言うことが恥ずかしくなった

もう一つ重要なのが、ファンダム文化との関係だ。

以前は、

「このバンドが大好きです」

と真剣に言うことが、比較的自然だった。

今でももちろんそうだ。

しかしSNSでは、あまりにも真剣に好きであることを表現すると、

「痛い」

「必死」

「parasocial」

「cringe」

などと見られる可能性がある。

そのため、

「いや、冗談だけど」

という逃げ道が必要になる。

好きだけど、冗談。

本気だけど、ネタ。

感動したけど、笑っている。

この二重構造が、

「本気であること」を守るためのアイロニー

になる。

「本当は好き」という気持ちを直接見せるのではなく、冗談で包む。

これは感情が弱くなったということではない。

むしろ、

感情が強いからこそ、直接見せるのが怖い。

だから笑いにする。


「cringe」はなぜ強い言葉になったのか

cringeという感覚は、現代インターネット文化を理解する上で重要だ。

誰かが、

「私はこれが大好きです!」

と過剰に真剣に語る。

それを見て、

「cringe」

と感じる。

なぜか。

その人が間違っているからではない。

むしろ、

感情が丸見えだからだ。

アイロニーは感情を隠す。

「別に本気じゃない。」

「ただのネタ。」

「冗談だから。」

その安全装置がある。

だから現代のネット文化では、

真面目さそのものより、

真面目さをどう隠すか

が重要になる。


しかし「真面目さ」は消えていない

ここで、このコラムのタイトルを少し疑ってみる必要がある。

インターネットは本当にseriousnessを失ったのだろうか。

おそらく、完全にはそうではない。

むしろ、

真面目さの置き場所が変わった

と考えた方が近い。

表面ではふざける。

しかし、その奥には非常に真面目な問題がある。

気候。

戦争。

経済的不安。

孤独。

仕事。

アイデンティティ。

AI。

監視。

アルゴリズム。

将来への不安。

こうした問題が消えたわけではない。

だからこそ、

表現形式だけが軽くなる。

重い問題を、重い言葉だけで語ることに疲れた。

そこで、

ミームにする。

ジョークにする。

動画にする。

変な画像にする。

音楽にする。

服にする。

広告にする。

それによって、扱えるようになる。


ふざけることは、現実を否定することではない

人間は昔から、深刻な状況で笑ってきた。

葬儀で冗談を言う。

戦争中に歌う。

貧しい時代にコメディを作る。

不安な時代に踊る。

これは現実逃避だけでは説明できない。

笑いには、

「この状況に対して、まだ自分たちの反応を選べる」

という感覚がある。

もちろん、すべてのダークユーモアが建設的というわけではない。

誰かを傷つけることもある。

偏見を強化することもある。

現実の問題を軽視することもある。

しかし文化現象として見るなら、

「なぜこんなにふざけるのか」

という問いには、

ふざける必要があるほど、現実が重い

という側面もある。


音楽のライブ空間では、seriousnessが別の形になる

この現象を音楽の現場に戻してみると、さらに面白い。

クラブ。

フェス。

ライブハウス。

そこでは人々は踊る。

音に合わせて身体を動かす。

声を出す。

笑う。

叫ぶ。

時には意味のない掛け声をする。

オンラインでは、文字と画像によって共有されるミームが、

ライブでは身体によって共有される。

ここには共通点がある。

意味を理解することより、同じ反応をすることが重要になる。

曲の構造を理解していなくても踊れる。

歌詞の意味を知らなくても歌える。

そのアーティストの歴史を知らなくても盛り上がれる。

つまり、

身体が文化への参加資格になる。

これはミームと非常によく似ている。


ダンスは「意味のない動き」を文化にする

TikTokのダンスも同じだ。

振り付けを理解する必要はない。

真似すればいい。

少し変えてもいい。

友達とやってもいい。

別の音楽に合わせてもいい。

つまりダンスは、

編集可能な文化

になる。

音楽が素材。

身体が編集ソフト。

SNSが配信プラットフォーム。

そしてアルゴリズムが拡散装置。

ここでは、

「正しいダンス」

より、

「自分も参加した」

ことが重要になる。


なぜ「変なもの」が記憶に残るのか

ここには心理的な理由もある。

毎日大量の似たコンテンツを見ると、

普通のものは区別しにくくなる。

きれいな写真。

きれいな顔。

きれいな部屋。

きれいな料理。

きれいな広告。

きれいな動画。

全部がきれいになる。

すると、

きれいであることが差別化にならなくなる。

そこで変なものが強くなる。

奇妙な顔。

奇妙な音。

奇妙な組み合わせ。

奇妙な文章。

奇妙な動き。

それは「予想外」だから止まる。

Adobeが2026年のクリエイティブトレンドで「Surreal Silliness」を取り上げたのも、この文脈で理解できる。

情報過多の環境では、

予想できないものが、最も予想しやすい方法で注目を集める。

それが、

「変なものを作る」

ということだ。


「美しい」より「見たことがない」が強くなる

Instagram初期の文化では、

美しさが大きな価値だった。

美しい写真。

美しい旅行。

美しい服。

美しい料理。

しかし全員が高品質なカメラを持ち、編集アプリを使い、AIまで利用できるようになると、

美しさそのものがコモディティになる。

誰でもきれいにできる。

誰でも映画のようにできる。

誰でもポスターのようにできる。

だから次に重要になるのは、

「これは何?」

という反応になる。

これはAI時代にはさらに強くなる。

AIは「きれい」を大量生産できる。

だから人間は、

「変であること」

に価値を見出す。


AI時代には「人間が作ったくだらなさ」が贅沢になる

ここには、逆説がある。

AIによって、

完璧な画像が大量に作れる。

完璧な広告が作れる。

完璧な音楽が作れる。

完璧な文章が作れる。

すると、

人間のミスが価値を持つ。

変な演奏。

少しずれた歌。

粗い映像。

偶然入ったノイズ。

下手な絵。

意味不明な編集。

誰かが本当にその場でやったこと。

それが「本物」に見える。

だから2026年のインターネットでは、

AIによるsurrealismと、人間によるimperfectionが同時に求められている。

一見すると矛盾している。

しかし共通しているものがある。

どちらも、

「完璧な企業コンテンツ」

から離れている。


「AI slop」と「人間のくだらなさ」は同じではない

ただし、ここは区別する必要がある。

AI slopは大量生産される。

人間のくだらなさは、偶然や文脈を含む。

この違いは大きい。

人間が作った変な動画には、

「なぜこんなことをしたのか」

という背景がある。

AIが生成した変な画像には、

その背景がない場合がある。

だからAI slopが増えるほど、

「誰が、なぜ、これを作ったのか」

が逆に重要になる。

これはMMRのような音楽文化を扱うメディアにとっても重要なポイントになる。

AIが情報を大量に生成できる時代には、

情報量そのものの価値が下がる。

代わりに、

文脈。

選択。

編集。

視点。

歴史。

体験。

それらが価値になる。


「何でもある」時代には、選ぶ人が重要になる

インターネットの初期には、

「情報がない」

ことが問題だった。

今は逆だ。

情報が多すぎる。

音楽も多い。

映像も多い。

文章も多い。

画像も多い。

AIによってさらに増える。

だから今後重要になるのは、

「何を作れるか」だけではなく、「何を選ぶか」

になる。

これはキュレーションの復活でもある。

レコードショップ。

古本屋。

ライブハウス。

小さなブログ。

専門誌。

コミュニティ。

そうした場所が持っていた価値が、

再び重要になる。

なぜなら、

「全部見る」

ことが不可能だからだ。


だから「Anti-Algorithm」が生まれる

ここで、unseriousnessと「anti-algorithm」の動きがつながる。

アルゴリズムは、

「あなたはこれが好きです」

と言う。

そして似たものを次々に見せる。

しかし、似たものばかり見ていると、

世界が狭くなる。

そこで人々は、

レコードショップへ行く。

中古CDを探す。

古本屋へ行く。

ライブへ行く。

友人に聞く。

小さなコミュニティを見る。

偶然を探す。

2026年のSNSトレンド分析でも、アルゴリズム過多への疲労や、より意図的なオンライン利用、オフラインでのつながりを求める動きが報告されている。

つまり、

unseriousnessとseriousnessの両方が、アルゴリズムから逃げる方法になり得る。

意味のないミームを見る。

逆に、深い音楽を聴く。

どちらも、

「アルゴリズムが決めた最適な人生」

から少し外れる行為だからだ。


2026年のインターネットは「真面目」から「本物」へ向かっている

ここで重要なのは、

seriousnessとauthenticityは同じではないことだ。

真面目そうに見えること。

専門的に見えること。

高品質に見えること。

プロフェッショナルに見えること。

これらは「本物」とは限らない。

逆に、

くだらない。

雑。

変。

ふざけている。

不完全。

そういうものでも、本物である可能性がある。

だから2026年の文化では、

「ちゃんとしている」より「本当にそこにいる」

ことが重要になる。

TikTokの2026年のトレンド予測でも、キュレーションされた完璧さより、リアルなプロセスや人間らしさ、ユーモア、imperfectionが強調されている。

これは単なるSNS戦略ではない。

文化の変化でもある。


では、seriousnessはどこへ行くのか

おそらく消えない。

むしろ、

より深い場所へ移動する。

表面はふざける。

中身は真面目。

タイトルはくだらない。

内容は深い。

映像は粗い。

音楽は複雑。

コメントは冗談。

議論は本気。

服は変。

思想は明確。

こういう二重構造が増えていく。

これは、

「post-irony」

とも呼べるような文化に近い。

本気と冗談を完全に分けない。

笑いながら本気で話す。

本気で作りながら、作品を神聖視しない。

それは、インターネット以前の文化とは少し違う。


「本気だけど、本気っぽくしない」

この感覚は音楽にも応用できる。

バンドが自分たちを神秘化しない。

アーティストが過剰に説明しない。

ファッションブランドが高級感を演出しすぎない。

広告が商品を褒めすぎない。

YouTuberが専門家を演じすぎない。

すべて、

「そんなに真面目に受け取らなくていい」

というメッセージを含む。

しかし、その裏側では、

制作そのものは非常に真剣だったりする。

ここに現代文化の面白さがある。


インターネットは「意味」を捨てたのではなく、意味を隠している

最終的に、

「Internet Is Running Out of Seriousness」

というタイトルは、少しだけ誤解を含んでいる。

インターネットからseriousnessが消えたわけではない。

むしろ、

seriousnessが見えなくなった。

真面目な問題を、

冗談として話す。

深刻な不安を、

ミームにする。

孤独を、

コメントにする。

音楽を、

15秒の音源にする。

ファッションを、

自虐にする。

広告を、

ジョークにする。

AIの不気味さを、

シュールな画像にする。

そして、

「何これ?」

と笑う。

その笑いの奥に、

「この世界はちょっとおかしい」

という感覚がある。

だから、unseriousnessは単なる文化的退行ではない。

それは、

現実の重さに対して、人間が作った軽さ

でもある。


年表:インターネットの「真面目さ」が変化した時間

年代 主な変化 文化的特徴
1990年代 Web掲示板・個人サイト 情報共有と匿名コミュニティ
2000年代前半 ブログ・フォーラム 個人の文章と専門コミュニティ
2000年代後半 YouTube・SNS 個人がメディアになる
2010年代前半 Instagram・Twitter 自己演出とリアルタイム文化
2010年代後半 TikTok以前のミーム文化 画像・GIF・短文による高速な共有
2020年前後 TikTok・短尺動画 音楽・映像・ダンス・ミームの融合
2020–2022 パンデミック期 オンライン文化と現実生活の境界が縮小
2023–2024 AI生成コンテンツの一般化 生成可能なコンテンツの爆発的増加
2024 「brain rot」が大きな文化語になる デジタル過剰摂取への自己認識
2025 Italian Brain Rot、6-7など 意味の薄いミームの巨大化
2025 AI slopが広く使われる 大量生成コンテンツへの警戒
2026 unseriousness・surreal sillinessの定着 不条理・人間らしさ・参加型文化
2026 anti-algorithm的動き オフライン、意図的消費、偶然の再評価

図:インターネット文化はどこへ向かっているのか

flowchart LR A["情報不足"] --> B["情報過多"] B --> C["アルゴリズムによる最適化"] C --> D["似たコンテンツの反復"] D --> E["疲労"] E --> F["不条理・ミーム・brain rot"] F --> G["共有と参加"] G --> H["コミュニティ"] H --> I["再び意味を探す"] I --> J["意図的な選択"] J --> K["偶然・人間らしさ"] K --> F

「意味を捨てること」と「意味を探すこと」は、現在のインターネットでは同じ循環の中にある。


図:seriousnessからunseriousnessへの変化

flowchart TD A["専門性"] --> B["権威"] B --> C["自己演出"] C --> D["完成度"] D --> E["アルゴリズム最適化"] E --> F["コンテンツ過剰"] F --> G["疲労"] G --> H["アイロニー"] H --> I["不条理"] I --> J["ミーム"] J --> K["参加"] K --> L["共同体"] L --> M["再解釈"] M --> H

真面目さが消えたのではなく、真面目さをそのまま表に出さない文化が強くなっている。


図:AI時代の「変なもの」の価値

flowchart LR A["AIによる大量生成"] --> B["高品質コンテンツの一般化"] B --> C["美しさの希少性低下"] C --> D["差別化の必要"] D --> E["奇妙さ"] E --> F["不条理"] F --> G["記憶に残る"] G --> H["共有される"] H --> I["ミーム化"] I --> J["文化化"]

完璧なものが大量に作れる時代には、完璧ではないことそのものが文化的な特徴になり得る。


「くだらないもの」が文化になる条件

すべてのくだらないものが文化になるわけではない。

そこにはいくつかの条件がある。

第一に、

共有できること。

一人だけが面白いのではなく、他人も参加できる必要がある。

第二に、

改変できること。

コピーするだけではなく、自分のバージョンを作れる必要がある。

第三に、

説明しすぎないこと。

余白が必要になる。

第四に、

文脈を持つこと。

完全にランダムなものより、「なぜこれが今ここにあるのか」が少し分かるものの方が共有しやすい。

第五に、

反復できること。

同じ構造を何度も使える必要がある。

これらはミームの基本的な特徴でもある。

だから、brainrotが単なる「くだらない動画」ではなく、文化形式として機能する。


そして、音楽はその中心にいる

音楽は、この変化の中で特に面白い位置にいる。

なぜなら音楽は、

意味がなくても共有できる

からだ。

歌詞を理解しなくてもいい。

ジャンルを知らなくてもいい。

アーティストを知らなくてもいい。

音が好きならいい。

ビートに反応すればいい。

そして、その音を別の動画に使える。

つまり音楽は、

最初から「編集可能な文化」だった。

録音。

リミックス。

サンプリング。

DJ。

ダンス。

クラブ。

ラジオ。

そしてTikTok。

メディアが変わるたびに、

音楽は別の文化の中へ移植されてきた。

だから現在のミーム文化と音楽文化は、かなり深いところでつながっている。


「深刻な音楽」と「くだらないミーム」は対立しない

実験音楽を聴きながら、

くだらないミームを見る。

ノイズを聴いた直後に、

意味不明なTikTokを見る。

クラブで真剣に踊った後、

帰り道に馬鹿げた動画を見る。

これは矛盾ではない。

むしろ、

現代の文化消費の普通の状態

になっている。

高尚。

低俗。

深い。

浅い。

芸術。

ミーム。

それらが同じ画面に並ぶ。

この境界の崩壊こそ、

インターネットが文化にもたらした大きな変化だった。


「何でも冗談にする」ことにも限界がある

もちろん、この流れには危険もある。

すべてをジョークにすると、

本当に重要な問題まで軽く見えてしまう。

誰かの苦しみをミーム化する。

誤情報を笑いながら拡散する。

差別的な表現を「ただの冗談」として扱う。

AI slopによって、事実と虚構の区別がつきにくくなる。

この問題は、unseriousnessの魅力とは別に考える必要がある。

笑いには自由がある。

しかし、

「冗談だから責任がない」わけではない。

むしろミームが社会に影響を持つほど、

誰が作ったのか。

何を意味するのか。

誰が傷つくのか。

どこまでが事実なのか。

という問題は重要になる。

だから、

unseriousnessの拡大は、

seriousnessの消滅ではなく、

seriousnessの再配置

として考えた方が正確なのかもしれない。


真面目な世界から、真面目すぎない世界へ

インターネットは、世界を軽くしたわけではない。

むしろ現実は重くなった。

情報量は増えた。

選択肢も増えた。

不確実性も増えた。

そして、人間はそれを毎日スマートフォンで受け取る。

その結果、

「もっと真剣に考えよう」

というメッセージだけでは疲れてしまう。

だから、

「まあ、これでいいじゃん」

という文化が必要になる。

変な動画を見る。

くだらないミームを送る。

意味不明な音を使う。

友達と笑う。

踊る。

ふざける。

わざとダサくする。

意味のないものを共有する。

それは、世界から逃げることではない。

一時的に、

世界をそれほど真面目に扱わなくてもいい状態

を作ることなのだ。


「Running Out of Seriousness」というタイトルの本当の意味

だから、

Why the Internet Is Running Out of Seriousness

というタイトルは、

「インターネットから知性がなくなった」

という意味ではない。

「若者が馬鹿になった」

という意味でもない。

「昔の文化の方が優れていた」

という意味でもない。

むしろ、

インターネットが、真面目さだけでは処理できないほど巨大になった

という意味に近い。

何十億もの人間が、

同じ画面を見ている。

同じミームを見る。

同じ音を聞く。

同じ広告を見る。

同じニュースを見る。

同じAI画像を見る。

同じアルゴリズムに追われる。

その巨大な環境の中で、

「意味のないもの」

が一種の休憩場所になる。

そこでは、

賢くなくていい。

生産的でなくていい。

美しくなくていい。

専門的でなくていい。

正しくなくていい。

ただ、

笑えばいい。

そして、その笑いを誰かに送ればいい。


2026年、最も人間らしいものは「完璧ではないもの」なのかもしれない

AIが画像を作る。

AIが文章を書く。

AIが音楽を作る。

AIが広告を作る。

AIが動画を作る。

AIがキャラクターを作る。

AIがニュースを要約する。

AIが会話する。

そんな時代になるほど、

人間側が求めるものは、

必ずしも「より高度なもの」ではなくなる。

少し間違っている。

少し変。

ちょっとくだらない。

意味が分からない。

でも誰かが本当にやった。

そういうものが残る。

なぜなら、

そこには偶然があるからだ。

そして偶然は、

完全には最適化できない。

インターネットが真面目さを失っているように見えるのは、

人間が何も考えなくなったからではない。

むしろ逆なのかもしれない。

あまりにも多くのものを考えなければならなくなったから、

考えなくてもいい瞬間を、

自分たちで作り始めた。

それがミームだった。

brain rotだった。

dark humorだった。

surrealismだった。

そして、

unseriousnessだった。

インターネットが真面目さを失ったのではない。真面目であり続けることに疲れた人々が、笑い、意味不明さ、偶然、そしてくだらなさの中に、もう一つの文化を作り始めたのである。


Monumental Movement Records

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