序章:2000年代後半のロンドンが生んだ「ポストダブステップ」の文脈
文:mmr|テーマ:都市の残響から生まれた新しい低音文化について
ポストダブステップ(Post-Dubstep)は、2000年代後半のロンドンを中心に形成された、ダブステップ以降の低音表現を拡張するムーブメントである。従来のダブステップが持っていた重低音、ダブ由来の空間処理、ガラージのリズム構造を出発点としながら、R&B、ソウル、実験電子音楽、アンビエント、アート志向のビートミュージックへと領域を広げた点に特徴がある。
初期ダブステップの中心地であったサウス・ロンドン(Croydon、Brixton など)では、DMZ のパーティカルチャーを通して成立した「サブベース主体の暗いサウンド」が存在していたが、2006〜2009年頃にかけて若いプロデューサーたちがより多様な要素を導入し始めた。その代表が Burial や Mount Kimbie、そして後に世界的な評価を得る James Blake を含む世代である。
彼らはクラブカルチャーだけでなく、都市騒音、深夜の交通、携帯録音、フィールドレコーディングなどの「都市の残響」をサンプル素材として取り込むことで、従来のベースミュージックにはなかった新しい情緒性を生み出した。
第1章:基礎的特徴と音響的アプローチ
1-1 低音構造:Sub-Bass の残響と再構築
ポストダブステップの低音処理は、初期ダブステップに比べて「抑制されたアタック」と「空間的広がり」を持つ傾向がある。
典型的な特徴として以下が挙げられる。
- 40〜60Hz の深いサブベースを中心とする
- サイン波ベースの使用頻度が高い
- LFO モジュレーションよりもボリュームエンベロープの微細な揺れを重視
- サブをステレオ化せず、中央に固定し、周囲をフィールド音で広げる
1-2 リズム構造:2-step の変形とポリリズム
ビートはガラージ由来の 2-step を基調としながらも、一定の揺らぎやブロークンビートを含む。
- バスドラムは 140前後ではなく、110〜130 BPM まで幅広い
- スネアは裏拍を強調せず、弱いアタックの音色
- ハットは金属的でなく、フィールド録音を加工した素材を使用する例も多い
- ドラムマシンだけでなく、小物の打撃音、紙のこすれ音などを短いサンプルとして利用
1-3 音響空間:残響、粒子化、フィールド録音
ポストダブステップは「空間を作るジャンル」と言ってもよい。特に以下の要素が特徴的である。
- ロンドンの街の雑音(雨音、車の音、改札のタッチなど)をサンプルとして使用
- Convolution Reverb を用いた実空間の反射音の再現
- 粒子化(Granular Synthesis)による残響のテクスチャ化
- 無音やノイズの「間」が曲の構造に影響を与える
第2章:主要アーティストの分析
2-1 Burial(Hyperdub)
Burial は2006年のデビュー作以降、ポストダブステップの中心的象徴として語られてきた。
彼の最も重要な特徴は「都市の孤独感の抽出」にある。
サウンドの特徴
- ボーカルサンプルは極端にピッチ処理され、複数のフォルマントが混ざり「性別不明」の質感をもつ
- Vinyl Crackle(レコードのノイズ)をあえて前景化
- キックは深夜の遠雷のような低いアタック
- スネアは金属質ではなく「折れた木材の破片」のような乾いた音質
- 全体的に「霧のような中域」が支配し、メロディは短いモチーフに留まる
- サッと消えるショートリリースのパッドを多用
サンプリング手法
Burial のサンプリングは特に特徴的で、さまざまな雑音が音楽的要素として組み込まれている。
- 電車のアナウンス音を加工してパッドに使用
- 夜間の雨の録音を粒子化してリズム素材へ
- ゲーム音声の切片を複合させ、人間的なニュアンスを形成
- ボーカル断片を極端に短く切り、リバース・リバーブ処理で幽霊的な存在感を付与
こうした手法により、Burial の楽曲は「クラブミュージックの外側にある都市の記憶」を再構築するものとなった。
2-2 James Blake:ソングライティングと実験ベースの融合
James Blake はポストダブステップをクラブカルチャーの文脈から引き上げ、シンガーソングライター的表現と結びつけた点で特異な存在である。
音響的特徴
- ピアノとボーカルを中心に据えた極端なミニマリズム
- ベースは必要最低限で、約50〜70Hz を中心に滑らかに配置
- コード進行はクラシカルな和声感を持つ
- フォルマント操作を抑制し、自然音と電子音の境界を曖昧化
- コンプレッションの深さによって「息づかい」が楽曲のリズムとして機能
サンプリング例
- 自身の声を短く切り、ピッチシフトして倍音の豊かなパッドに変換
- ピアノのペダルノイズをコンプレッションで前景化
- 低域に短いパルスノイズ(クリック)を混ぜ、キックの代替として使用
James Blake のアプローチは「実験ベースミュージック」と「内省的なソングライティング」を接続した重要な転換点として扱われている。
第3章:サウンドデザインの技法詳細
3-1 フィールド録音の処理
- ロンドンの環境音(駅、バス、雨音)を録音
- EQ で 300〜800Hz を強調し「中域の都市感」を作る
- リバーブを短くし、空間の輪郭を曖昧化
- Grain Size を 10〜70ms で設定し、霧状のテクスチャを形成
3-2 ボーカル加工
- Pitch-shift ±12 以上の極端な移動
- Formant-shift を独立調整し、性別・年齢の曖昧化
- Reverse Reverb を短く付加することで「近づいて消える幻像」のような質感に
- ハーモナイザーを使用して不協和な和声を形成する例も多い
3-3 ベース生成
- サイン波を中心とする
- Attack 5〜20ms、Release 100〜200ms の短いエンベロープ
- 60Hz 以下のローエンドをクリアに保つため、他のレイヤーは HPFで整理
- ステレオ広がりはフィールド録音に任せ、ベース自体はモノラル
第4章:年表(主要動向)
第5章:ポストダブステップから Experimental Bass への拡張
2010年代以降、ポストダブステップは単にダブステップ以降の派生ジャンルではなく、より広い「Experimental Bass(実験ベース)」の概念へと拡大した。
特徴
- ベースラインが曲の主役ではなく「空間構造の要素」へ
- ASMR 的微細音の導入
- ハーフテンポの構造を緩く取り入れたダウンテンポ化
- ハイブリッドな音像:R&B、現代音楽、アンビエントとの融合
代表的要素の変遷
- 初期:ロンドンの都市感、霧の質感
- 中期:ボーカル主体の内省的表現
- 現代:ASMR・環境音響・ミニマルサウンドとの交差
第6章:音響解析例(構造・周波数・素材)
6-1 典型的な周波数帯分布
- 20〜60Hz:サイン波ベース
- 200〜800Hz:フィールド録音・ノイズ・ボーカル断片
- 1〜3kHz:チャープ音、加工されたパーカッション
- 8〜12kHz:空気感、微粒子化ノイズ
6-2 曲構成
- 明確なドロップを避ける
- 反復よりも「消える/現れる」構造
- リズムとメロディの境界が曖昧
図(構造モデル)
結語:低音の未来としてのポストダブステップ
ポストダブステップは、単なるダブステップの進化形ではなく、都市の残響、フィールド録音、内省的ボーカル、実験的電子音楽を通じて「低音を使った感情表現の更新」を実現したムーブメントである。
Burial が街の孤独を音に変換し、James Blake が個人の声と電子音を統合したように、ポストダブステップ/Experimental Bass は今後も新たな音響実験の土壌となり続けるだろう。