序章:呼吸としての音、宇宙としての即興
文:mmr|テーマ:ジャズは技巧やジャンルの拡張ではなく、音が人間に何をもたらすかという根源的な問いについて
Nala Sinephroの音楽に最初に触れたとき、私たちは“曲”という概念を一度手放さざるをえない。
2021年、Warp Recordsからリリースされたデビュー作『Space 1.8』は、ジャズとアンビエント、モジュラー・シンセシスと即興演奏の境界を、まるで呼吸のように溶かしていく作品だった。
ハープ、テナーサックス、モジュラー・シンセサイザー、そして空間そのもの。
Nalaの音楽は、音響そのものが「精神の環境」になる瞬間を描いている。
それは「静けさの中で宇宙が呼吸する」ような体験であり、聴く者の身体をひとつの共鳴体に変える。
第一章:ロンドン・シーンの胎動 ― 南からの風
ロンドンのジャズ再興が語られるとき、必ず浮かぶのは南ロンドンという地理的なエネルギーだ。
Sons of Kemet、Nubya Garcia、Shabaka Hutchings、Moses Boydらが新しいジャズの語彙を打ち立ててきたが、Nala Sinephroはその潮流の中でも「沈黙の側」から音を再構築した存在である。
彼女はセントルシアとベルギーのルーツを持ち、クラシックと電子音響を同時に学んだ。
それが、ロンドンのジャズ・クラブ「Total Refreshment Centre」でのセッションを通じて、
ハープとモジュラー・シンセを自在に行き来する独自の音語を形成していく。
“音は私にとって、空気の中の微粒子のようなもの。”
― Nala Sinephro
彼女の言葉通り、そのサウンドは「粒」としての音を重ね、時間を光のように屈折させていく。
第二章:『Space 1.8』の構造と意識の変容
『Space 1.8』のトラック構成は、まるでヨガや瞑想のセッションを想起させる。
Space 1 から Space 8 まで――すべての楽曲が「呼吸の位相」のように配置されている。
- Space 1: 微細なモジュラー音が空間をひらく“入口”
- Space 2: ハープとサックスの対話、内なる振動
- Space 5: 瞬間的なジャズ・アンサンブルが微光のように現れては消える
- Space 8: 8分間の深呼吸、すべての音が宇宙の残響として沈む
これはアルバムというよりも、「音響による精神儀式」だ。
Miles Davisが『In a Silent Way』で「音の間」を探したように、
Nalaは「音の呼吸」を探している。
第三章:アンビエント・ジャズという思想
アンビエント・ジャズ――それはジャンルというより、音の態度(attitude)である。
Brian Enoが提唱した“環境音楽”の概念を、スピリチュアル・ジャズの文脈へと接続する流れだ。
Nala Sinephroの音楽は、Harold BuddやAlice Coltrane、そしてLaraajiの精神を継ぎながら、
21世紀のポスト・クラブ時代において再定義された“瞑想的モダニズム”である。
彼女のハープとシンセは、音の層を重ねながら「ジャズ的な即興」を空間の中に拡散させる。
リズムは消え、旋律は漂い、残るのは時間と空間の感触のみ。
Ambient (1978)"] --> B["Harold Budd
Soft Focus"] B --> C["Alice Coltrane
Spiritual Jazz"] C --> D["Nala Sinephro
Space 1.8 (2021)"] D --> E["現代アンビエント・ジャズ
Floating Points / Sam Shepherd"]
この図が示すように、アンビエント・ジャズは「静寂の継承」と「精神性の更新」を同時に担う運動である。
第四章:モジュラー・シンセと“聴く身体”
Nalaはライブパフォーマンスで、ハープと同時にEurorackモジュラー・システムを操作する。
そこではパッチングそのものが即興演奏であり、聴く者の身体と空間を変容させる。
機材構成例:
- Make Noise Maths
- Mutable Instruments Clouds
- Intellijel Quad VCA
- Moog Mother-32
- Ableton Live(ループ処理用)
この構成は、まさに「人間と機械の呼吸装置」である。
波形がハープの余韻を包み、アナログの温度が電子的な透明度を中和する。
それは音楽をテクノロジーの祈りへと昇華させる行為でもある。
第五章:静寂の政治 ― 音のケアとしてのアンビエント
パンデミック以降、世界がノイズと不安に包まれたとき、
Nalaのような音楽は「癒し」としてではなく、抵抗の形として現れた。
“静寂”は単なる休息ではない。
それは、世界の喧騒に抗して自らのリズムを取り戻すセルフケアの政治でもある。
彼女の音楽を聴くことは、自分の内側に戻る行為であり、
同時に社会の速度に対する“スロウネスの宣言”でもあるのだ。
補章:Nala Sinephro 年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1998 | セントルシア系ベルギー人として生まれる |
| 2015 | ロンドンへ移住、ジャズシーンで活動開始 |
| 2018 | Total Refreshment Centreに参加、即興セッションを開始 |
| 2021 | Warp Recordsより『Space 1.8』リリース |
| 2022 | Gilles Petersonらにより国際的評価を獲得 |
| 2024 | 新作制作・モジュラーライブ・プロジェクト開始 |
図解:アンビエント・ジャズの系譜(Mermaid)
(Alice Coltrane, Pharoah Sanders)"] B["Ambient Music
(Brian Eno, Harold Budd)"] C["Electronic Meditations
(Laraaji, Steve Roach)"] D["London New Jazz
(Shabaka Hutchings, Nubya Garcia)"] E["Nala Sinephro
Space 1.8 (2021)"] F["Post-ambient Jazz
Floating Points, Alfa Mist, Maria Chiara Argirò"] A --> E B --> E C --> E D --> E E --> F
結語:音の未来は、静寂の中で脈打つ
Nala Sinephroの音楽は、「ジャズとは何か」という問いを再び開く。 それは技巧やジャンルの拡張ではなく、音が人間に何をもたらすかという根源的な問いだ。
アンビエント・ジャズの核心は、“音楽を聴くこと”が再び“世界とつながる行為”になるという希望にある。 Nalaのハープが放つ一音一音は、宇宙の呼吸のように静かに、しかし確かに生きている。