【コラム】 Goran Bregović — ユーゴスラヴィアのロックから、世界のバルカン音楽へ

Column Balkan Music Bijelo Dugme Yugoslavia
【コラム】 Goran Bregović — ユーゴスラヴィアのロックから、世界のバルカン音楽へ

ゴラン・ブレゴヴィッチとは何者だったのか

文:mmr|テーマ:「国が消えても音楽は残る――ゴラン・ブレゴヴィッチがロック、映画、バルカンの伝統を越境させ、ユーゴスラヴィアの記憶を世界のステージへ運んだ半世紀」

ゴラン・ブレゴヴィッチを説明するとき、多くの場合、最初に出てくるのは「バルカン音楽」という言葉だ。

しかし、それだけでは彼のキャリアはほとんど説明できない。

1950年3月22日、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国のサラエヴォに生まれたブレゴヴィッチは、1960年代にロックへ接近し、1970年代にはBijelo Dugmeを率いてユーゴスラヴィア最大級のロック・スターになった。その後、映画音楽へ進み、エミール・クストリッツァとの仕事によって国際的な知名度を獲得する。さらに1990年代後半からは、Wedding and Funeral Orchestraを中心に、ロック、ブラス、東欧の民俗音楽、合唱、弦楽器、電子音楽を組み合わせた独自のステージを世界各地で展開した。

つまりブレゴヴィッチの人生は、単純な「民族音楽の世界進出」ではない。

むしろそれは、

ロックから映画へ。

映画から世界へ。

そして世界から、もう一度バルカンへ。

という、何度も方向を変えながら続いてきた音楽家の歴史だった。

彼が重要なのは、伝統音楽をそのまま保存したからではない。

伝統、ロック、映画、ポップス、宗教音楽、ブラス、舞台音楽といった異なる音楽の場所を、ひとつの作品の中で衝突させてきたからだ。

ゴラン・ブレゴヴィッチの音楽を聴くことは、ひとりの作曲家を見ることではなく、20世紀後半のバルカン半島が経験した変化を音楽の形で追いかけることでもある。



1950年、サラエヴォという場所

ブレゴヴィッチが生まれたサラエヴォは、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都である。

彼が生まれた1950年には、まだユーゴスラヴィアという国家が存在していた。

父親はクロアチア系、母親はセルビア系だったとされる。さらに彼自身は、イスラム教徒の人口も多いサラエヴォで成長した。後年の彼の音楽を考えると、この複数の文化的背景は重要な意味を持つ。

もちろん、後年の音楽を幼少期の家庭環境だけから説明することはできない。

ただし、ブレゴヴィッチの音楽に宗教的な響き、民族的な旋律、ロック、ブラスなどが同居することを考えると、彼が育った都市そのものが重要な背景になっている。

サラエヴォでは、カトリック、正教会、イスラム文化などが隣接していた。

彼自身も後年、サラエヴォで異なる宗教の鐘や祈りの声を聞きながら育ったことを、自分の音楽的背景として語っている。

これは「バルカンらしさ」という曖昧なイメージよりも、はるかに具体的な話だ。

異なる音楽文化が、遠く離れた場所ではなく、同じ街の中で共存していた。

ブレゴヴィッチの音楽には、その環境がひとつの巨大な音楽的記憶として残っている。


ヴァイオリンからロックへ

少年時代のブレゴヴィッチは音楽教育を受け、ヴァイオリンを学んだ。

しかし、クラシック音楽の訓練だけでは彼の興味を満たせなかった。

1960年代になると、彼はロックンロールに強く惹かれていく。

この時代のユーゴスラヴィアでは、西側のロック音楽が若者文化の重要な一部になっていた。ブレゴヴィッチもその波の中に入っていった。

彼は10代でバンド活動を始め、ギターやベースを演奏した。

最初期にはKodeksiなどのグループで活動している。

ここで興味深いのは、彼の音楽人生が最初から「民族音楽」だけだったわけではないことだ。

むしろ出発点はロックだった。

しかも、当時のロックは単なる音楽ジャンルではなかった。

若者が自分たちの世代の感覚を表現するための、新しい言語でもあった。

ブレゴヴィッチ自身も、当時のロックが若者にとって重要な表現手段だったことを語っている。

この経験が、後の音楽に決定的な意味を持つ。

彼は伝統音楽を知る前に、まずロックという「外から来た音楽」を自分のものにした。

だから後年、彼がバルカンの伝統的な旋律を扱うときにも、それは博物館の展示物のような音楽にはならなかった。

そこには常にロック・ミュージシャンとしての感覚が残っていた。

ブレゴヴィッチの音楽の出発点は「民族音楽」ではなく、ロックだった。


Bijelo Dugmeがすべてを変えた

1970年代前半、ブレゴヴィッチはJutroというグループに関わり、1974年、そのグループがBijelo Dugmeへと発展する。

Bijelo Dugme。

日本語にすれば「白いボタン」。

この名前のロック・バンドは、ユーゴスラヴィアの音楽史を大きく変えることになる。

ブレゴヴィッチはギタリストであると同時に、ソングライター、プロデューサーとしてバンドの中心にいた。

Bijelo Dugmeは西側のロックをそのままコピーしたグループではなかった。

ロックのサウンドを基盤にしながら、ユーゴスラヴィアの大衆音楽や地域的な旋律を取り込んでいった。

ここにブレゴヴィッチの基本的な方法論がすでに現れている。

「伝統かロックか」

ではない。

「ロックの中に、どこまで地域の音楽を入れられるか」

だった。

Bijelo Dugmeは1970年代から1980年代にかけて巨大な人気を獲得し、13枚のアルバムを発表し、累計で約600万枚を売ったとする資料もある。

バンドの活動期間について資料には若干の差があるが、1974年に始まり、1980年代末に活動を終えたことは複数の資料で確認できる。

この時期のブレゴヴィッチは、まだ「世界音楽の作曲家」ではない。

彼はユーゴスラヴィアのロック・スターだった。

そして、この事実を忘れると、その後のキャリアを誤解することになる。


ロック・スターとしてのブレゴヴィッチ

Bijelo Dugmeの成功は、単にアルバムが売れたという話ではない。

ユーゴスラヴィア全体を横断する大衆的な存在になったことが重要だった。

ユーゴスラヴィアは複数の共和国と民族、言語、宗教、地域文化を抱える国家だった。

その中で全国的な人気を持つロック・バンドになることは、現在の一国だけを対象にした成功とは意味が違う。

ブレゴヴィッチはその巨大な市場の中心にいた。

大規模なツアー、アルバム、テレビ、雑誌、ファン。

Bijelo Dugmeは東欧におけるロック文化の象徴的存在になっていった。セルビア映画センターも、同バンドを20世紀の東欧で最も有名なロック・グループのひとつとして紹介している。

ここで重要なのは、ブレゴヴィッチがすでに「大衆に音楽を届ける方法」を知っていたことだ。

後の映画音楽でも、彼の旋律は難解な現代音楽として提示されることが少ない。

強いメロディ。

強いリズム。

すぐに身体へ入ってくる反復。

そして、一度聴くと覚えやすいフレーズ。

この感覚はBijelo Dugme時代から続いている。

後の「バルカン音楽の世界化」を支えたのは、伝統音楽の知識だけではなく、巨大なロック・バンドを運営した経験だった。


ロックから映画音楽へ

ブレゴヴィッチはBijelo Dugme時代から映画音楽にも関わり始めている。

1978年にはMica Milošević監督の映画『Nije Nego』の音楽を手がけたとされる。

しかし、彼のキャリアを大きく変えることになる仕事は1980年代後半に訪れる。

エミール・クストリッツァ。

サラエヴォ出身の映画監督である。

クストリッツァとの共同作業によって、ブレゴヴィッチはロック・ミュージシャンという立場から映画音楽家へと大きく移動する。

最初の重要作が『ジプシーのとき』である。

この映画の音楽は、ブレゴヴィッチのその後を理解するための重要な転換点になった。

ロック・バンドのための曲とは違い、映画音楽には映像がある。

人物が歩く。

街が映る。

会話が止まる。

誰かが笑う。

誰かが死ぬ。

観客がまだ理解していない感情を、音楽が先に伝えることもできる。

ブレゴヴィッチはこの領域に入った。

そして、彼の音楽はここで新しい形を獲得する。


『ジプシーのとき』という転換点

1988年の『ジプシーのとき』は、ブレゴヴィッチの国際的なキャリアを考えるうえで非常に重要な作品だ。

クストリッツァの映像と、ブレゴヴィッチの音楽。

この組み合わせによって、バルカン地域の音楽的要素がヨーロッパ外の観客にも強く印象づけられるようになった。

ここでブレゴヴィッチが使ったのは、ひとつの民族音楽だけではない。

ブラス。

合唱。

弦楽器。

宗教的な響き。

東欧・バルカン地域の民俗的な旋律。

そしてロック的な音圧。

これらを映画という巨大なフレームの中で組み合わせた。

この方法は、その後の彼の代表的なスタイルになる。

ただし、この時期の音楽をめぐっては、伝統的な旋律やロマの音楽をどのように編曲し、誰がどのような作者性を持つのかという議論も存在する。研究者の中には、ブレゴヴィッチの編曲と伝統音楽の作者性について、ロマ音楽家との間に論争が続いてきたと指摘する者もいる。

この問題は、彼の音楽を評価するときに避けて通れない。

なぜなら、彼の成功そのものが「地域の音楽を世界へ届けること」と深く結びついているからだ。

世界に知られるようになる過程では、誰の音楽なのかという問題も同時に大きくなる。

ブレゴヴィッチの国際的成功は、バルカン音楽を世界へ紹介した功績だけでなく、伝統音楽と現代の作者性をめぐる問題まで浮かび上がらせた。


『Arizona Dream』とIggy Pop

1993年、ブレゴヴィッチはクストリッツァの『Arizona Dream』の音楽を手がける。

ここで重要なのがIggy Popの存在だ。

Iggy Popが歌う楽曲を含むサウンドトラックによって、ブレゴヴィッチの音楽はさらに広いポップ・カルチャーの領域へ入っていく。

これは単なるゲスト参加ではない。

ロック史を代表する人物のひとりと、ユーゴスラヴィア出身の作曲家が同じサウンドトラックに存在する。

1970年代にロック・スターだったブレゴヴィッチが、今度は映画という媒体を通じて西側のロック文化とも接続した。

この時期から彼の音楽は、「東欧の珍しい音楽」という枠を少しずつ越えていく。

バルカンの旋律を使っている。

しかし、そこにはロックの感覚がある。

映画音楽である。

しかし、ポップ・ソングとしても成立する。

この二重性がブレゴヴィッチの強さだった。


『Underground』とカンヌ

1995年、クストリッツァ監督の『Underground』がカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞する。

ブレゴヴィッチはその音楽を担当した。

『Underground』はユーゴスラヴィアの歴史と崩壊を背景にした作品として知られている。

ここで音楽は単なる背景ではない。

ブラスが鳴る。

人々が踊る。

祝祭のような場面が現れる。

しかし、その背後には戦争と国家の崩壊がある。

この「祝祭と悲劇が同じ音楽空間に存在する」という構造は、ブレゴヴィッチの音楽を考えるうえで非常に重要だ。

彼の音楽には、明るい音なのに悲しい。

踊れるのに重い。

大騒ぎしているのに、どこか死の気配がある。

という場面がしばしば現れる。

これは単純な「楽しいバルカン音楽」というイメージとは違う。

むしろ、喜びと悲しみを同時に鳴らす音楽だ。

『Underground』によって、ブレゴヴィッチの音楽は祝祭と歴史的悲劇を同じ音響空間に置く方法を、世界的な映画の中で示した。


クストリッツァだけではない映画音楽家

ブレゴヴィッチについて語ると、どうしてもクストリッツァとの関係が中心になる。

しかし、それだけでは彼の映画音楽家としての活動を狭く捉えすぎる。

1990年代にはパトリス・シェロー監督の『王妃マルゴ』、ラドゥ・ミハイレアヌ監督の『Train de Vie』、その他の映画作品にも音楽を提供している。

『王妃マルゴ』では、歴史映画のための音楽として、ブレゴヴィッチの音楽語法が別の環境に置かれた。

つまり彼は「バルカン映画の作曲家」ではなくなっていく。

歴史映画。

ドラマ。

コメディ。

ドキュメンタリー。

さまざまな映像作品へと活動範囲を広げていった。

ここで彼の作曲家としての適応力が見えてくる。

音楽の出発点はサラエヴォだった。

しかし、音楽が置かれる場所はサラエヴォだけではなかった。


ユーゴスラヴィア崩壊という巨大な断絶

そして、ブレゴヴィッチの人生には、音楽だけでは説明できない巨大な変化が起きる。

ユーゴスラヴィアの崩壊である。

1990年代初頭、ユーゴスラヴィアでは戦争が始まった。

それまで彼が活動していた国家そのものが解体していく。

Bijelo Dugmeという「ユーゴスラヴィア全体のロック・バンド」が成立していた社会的基盤も消えていった。

ブレゴヴィッチ自身もパリへ移ることになった。

これは単なる活動拠点の変更ではない。

彼の青春を作った国がなくなった。

彼のバンドが活動していた文化圏が分断された。

そして彼自身の複合的な背景も、戦争によって以前とは違う意味を持つことになる。

ユーゴスラヴィア時代には、セルビア系、クロアチア系、ボスニア系など異なる文化がひとつの国家の中に存在していた。

しかし、その国家が崩壊すると、「混ざっていること」そのものが政治的な意味を帯びる。

ブレゴヴィッチの音楽は、こうした歴史から切り離すことができない。


パリで始まった第二のキャリア

1990年代、ブレゴヴィッチはパリを拠点に活動するようになる。

ここから彼は、ユーゴスラヴィアのロック・スターという過去を持ちながら、新しい国際的な作曲家として活動することになる。

この時期の面白さは、彼が「ユーゴスラヴィアを失った後に、ユーゴスラヴィア的な音楽を世界へ持っていった」ことだ。

もちろん、ユーゴスラヴィア時代の音楽をそのまま再現したわけではない。

むしろ、彼はバルカンという地域の音楽的要素を再構成した。

映画音楽。

ソロ・アルバム。

歌手との共同作業。

ライブ。

そして大編成のオーケストラ。

活動の形が変わっていく。

1990年代後半になると、彼は映画音楽だけではなく、自分自身の音楽を演奏するアーティストとしても国際的な活動を拡大していく。

ユーゴスラヴィアの消滅はブレゴヴィッチの音楽活動を終わらせなかった。むしろ、彼を「国家のロック・スター」から「国境を越える作曲家」へ変えた。


Wedding and Funeral Orchestra

ブレゴヴィッチの後半のキャリアを語るうえで欠かせないのが、Wedding and Funeral Orchestraである。

名前からして強烈だ。

結婚式と葬式。

人生の始まりを祝う場面と、人生の終わりを悼む場面。

普通なら正反対に見える。

しかし、ブレゴヴィッチにとっては、この二つは意外なほど近い。

彼は2025年のインタビューで、この名前には冗談の部分がありながら、実際にバルカンのブラス奏者たちが結婚式と葬儀の両方で演奏する文化が背景にあると説明している。

これはブレゴヴィッチの音楽を理解するための重要な手がかりだ。

音楽は、人生の特別な日に鳴る。

結婚するとき。

死者を送るとき。

祭りのとき。

人々が集まるとき。

つまり、音楽はステージの上だけに存在するものではない。

社会的な儀礼の中に存在する。

この考え方が、彼のライブを単なるコンサートではなく、大規模な祝祭のようなものにしていった。


なぜ「Wedding」と「Funeral」なのか

この名前には、ブレゴヴィッチの音楽そのものが凝縮されている。

結婚式には喜びがある。

葬式には悲しみがある。

しかし、人間の感情はそこまで単純ではない。

結婚式にも不安がある。

葬式にも笑いがある。

死者を悼む場で、その人が好きだった曲を演奏することもある。

ブレゴヴィッチが説明するように、バルカンの一部の葬儀後の習慣では、故人の家で食事をし、酒を飲み、故人の好きだった音楽を演奏することがある。

だから「葬式=静かな音楽」という西欧的な固定観念だけでは理解できない。

音楽は悲しみを消すためにあるのではない。

悲しみと一緒に存在するためにもある。

その発想が、ブレゴヴィッチの音楽に独特のエネルギーを与えている。

Wedding and Funeral Orchestraという名前は奇抜なキャッチコピーではなく、ブレゴヴィッチが音楽を人生の儀礼として捉えていることを示している。


ブレゴヴィッチの音楽を構成するもの

ブレゴヴィッチの音楽には、複数の層がある。

大きく分けると、次のように整理できる。

要素 役割
ロック ギター、強いビート、ポップな構造
ブラス 身体的なエネルギー、祝祭感
バルカン民俗音楽 地域的な旋律とリズム
ブルガリア系の歌唱 独特の合唱的響き
男声合唱 宗教的・儀礼的な厚み
弦楽器 映画音楽的な広がり
電子音 現代的な音響処理
映画的構成 感情を場面として展開する力

実際、彼のオーケストラはブラス、ブルガリアの女性歌手、弦楽器、男声合唱など複数の要素を組み合わせる編成として紹介されている。

これを図にすると、彼の音楽は単純な一本線ではなく、複数の流れが交差する構造になる。

flowchart LR A["Rock"] --> D["Goran Bregović"] B["Balkan Folk"] --> D C["Brass Tradition"] --> D E["Orthodox / Sacred Sound"] --> D F["Film Music"] --> D G["Pop Music"] --> D D --> H["Wedding and Funeral Orchestra"] H --> I["Global Concert Culture"]

この構造を見ると、ブレゴヴィッチがなぜ「ジャンル」で分類しにくいのかが分かる。

彼はひとつのジャンルを代表しているのではない。

異なるジャンルが交差する場所そのものを作っている。


ブラスはなぜ重要なのか

ブレゴヴィッチの音楽を象徴する音色のひとつがブラスだ。

トランペット。

トロンボーン。

サックス。

大音量で鳴る管楽器。

このサウンドは、彼の音楽に非常に強い身体性を与える。

弦楽器中心の映画音楽とは違い、ブラスは空間を直接押してくる。

観客の身体に振動として届く。

だから彼の音楽は、椅子に座って聴くだけでは終わらない。

踊ることができる。

叫ぶことができる。

集団で反応できる。

その意味では、ブレゴヴィッチの音楽は「ワールド・ミュージック」というレコード店の分類よりも、祭りや広場に近い。

彼のステージには、ロマのブラス奏者、ブルガリアの歌手、弦楽器奏者など、複数の音楽文化を背負った演奏者が参加してきた。

ブレゴヴィッチのブラスは装飾ではない。それは音楽を「聴くもの」から「身体で参加するもの」へ変える装置になっている。


リズムの力

ブレゴヴィッチの音楽には、バルカン地域の複雑なリズム感覚も現れる。

7拍子や9拍子など、西欧ポップスで一般的な4拍子とは異なるリズムが、バルカン地域の音楽には存在する。

もちろん、彼のすべての楽曲が複雑な拍子で作られているわけではない。

重要なのは、彼がこうした地域的なリズム感覚を、ロックやポップスの強いビートと共存させてきたことだ。

この方法によって、聴き手は「異国的なリズム」を理解しなくても身体で感じることができる。

理論を知らなくても踊れる。

拍子記号を読めなくても、リズムの違いは分かる。

これは彼の音楽が国際的に広がった理由のひとつだ。


映画音楽とポップ音楽の境界

ブレゴヴィッチの作品には、映画音楽とポップ・ミュージックの境界が曖昧なものが多い。

これは彼の重要な特徴だ。

映画のために作った旋律が、映画から離れて単独で聴かれる。

逆に、ライブで演奏される音楽が映画的な場面を想像させる。

この相互作用がある。

『Arizona Dream』の音楽にIggy Popが参加したことは、その象徴的な例だ。

映画のサウンドトラックなのに、ロック・アルバムとしても聴ける。

この性質によって、ブレゴヴィッチは映画音楽家としてだけでなく、ポップ・ミュージシャンとしても国際的な聴衆を獲得した。


「バルカン音楽」というラベルの問題

ここで一度、「バルカン音楽」という言葉そのものを疑ってみる必要がある。

バルカン半島には多数の国、民族、言語、宗教、音楽文化がある。

それらをすべてひとつの「バルカン・サウンド」として扱うと、非常に分かりやすくなる。

しかし、その分だけ複雑さも失われる。

ブレゴヴィッチ自身の音楽も、ひとつの民族音楽を再現しているわけではない。

彼は異なる地域の音楽要素を組み合わせている。

そのため、海外の観客にとっては「バルカンらしい音」に聞こえても、地域内部から見ると、もっと複雑な文化的背景が存在する。

この問題は、ロマ音楽をめぐる議論ともつながっている。

研究では、ブレゴヴィッチの映画音楽に伝統的な東欧・ロマ音楽の旋律が使われ、それらの作者性や編曲をめぐって論争が起きてきたことが指摘されている。

これはブレゴヴィッチの音楽を否定する材料として単純化するべきではない。

むしろ、「世界音楽」というジャンルそのものが抱えてきた問題を見るための重要なケースだ。

誰が地域の音楽を代表するのか。

誰が編曲者なのか。

伝統的な旋律は誰のものなのか。

そして、世界市場で売れる形に変換されたとき、何が失われるのか。

ブレゴヴィッチは、こうした問いを避けて通れない音楽家でもある。

ブレゴヴィッチを聴くことは、「バルカン」という便利な言葉の裏側にある複雑な文化の境界線を見ることでもある。


Ofra Haza、Cesária Évora、Kayah

ブレゴヴィッチは、さまざまな国の歌手とも共同作業を行ってきた。

Iggy Pop。

Ofra Haza。

Cesária Évora。

Kayah。

George Dalaras。

そしてほかにも多くの音楽家がいる。

この国際的なコラボレーションは、彼の音楽のもうひとつの特徴だ。

彼は「バルカンの音楽家だからバルカンの歌手だけと仕事をする」という道を選ばなかった。

むしろ、異なる文化圏の歌声を自分の音楽構造へ入れていった。

ここでも中心にあるのは混合だ。

ただし、その混合は単なる「何でも入れる」というものではない。

歌手の声そのものが、作品の地域性を変える。

Iggy Popが歌えばロックになる。

Cesária Évoraが加われば、大西洋側の歌謡文化との接点が生まれる。

Ofra Hazaとの仕事では、さらに別の文化圏が加わる。

ブレゴヴィッチは、自分の音楽を閉じた地域文化としてではなく、外部との接触によって変化する音楽として扱ってきた。


『Karmen with a Happy End』

2007年には『Karmen with a Happy End』が発表される。

これはカルメンの物語をベースにしながら、ブレゴヴィッチ自身の音楽世界を舞台作品へ広げた作品だ。公式のリブレットでは「gypsy opera」とされ、Wedding and Funeral Bandによって演奏される作品として構成されている。

ここで見えてくるのは、ブレゴヴィッチが単なる「映画音楽家」ではないということだ。

彼は物語を音楽にする。

音楽を舞台にする。

舞台をコンサートへ持っていく。

そしてコンサートでは再び映画のようなドラマを作る。

ジャンルの境界線を移動し続ける。

この柔軟性こそが、彼のキャリアを長くした理由のひとつだろう。


『Champagne for Gypsies』

2012年には『Champagne for Gypsies』が発表される。

この時期の活動には、ロマ音楽家や世界各地の音楽家との協働が含まれている。

ここでも、彼の音楽の中心には「交流」がある。

ブレゴヴィッチは、バルカンの音楽を固定された過去として扱うのではなく、現在進行形の国際的な音楽文化として扱っている。

その結果、伝統音楽は「古い音楽」という意味を失っていく。

ブラスは現代のステージで鳴る。

民俗的な旋律はロック・ギターと一緒に鳴る。

古い歌唱法は電子音と共存する。

この組み合わせが、ブレゴヴィッチの音楽を現代的なものにしている。


『Three Letters from Sarajevo』

2017年の『Three Letters from Sarajevo』は、ブレゴヴィッチの人生そのものと深く結びついた作品として位置づけられる。

この作品では、3人のヴァイオリニストがそれぞれ異なる文化的背景から参加する構成が採用された。ブリュッセルでの公演資料では、セルビア、チュニジア、イスラエルの3人のソリストによる協奏曲として紹介されている。

タイトルが示すのはサラエヴォだ。

ブレゴヴィッチが生まれた街。

複数の宗教と文化が共存していた街。

そして戦争と分断を経験した街。

ここで彼は、サラエヴォを単なる故郷として扱うのではなく、異なる文化が接触する場所として音楽化している。

これは彼のキャリアの最初から最後まで続いてきたテーマでもある。

異なるものを混ぜる。

ただし、完全に同じものにするのではない。

違いを残したまま、同じ曲の中に置く。

『Three Letters from Sarajevo』は、ブレゴヴィッチが半世紀にわたって扱ってきた「異なる文化が同じ音楽の中に存在する」という問題を、故郷の名前を使って正面から扱った作品だった。


ブレゴヴィッチの音楽は「融合」なのか

ここで注意したい言葉が「融合」だ。

異なる音楽を混ぜると、簡単に「融合音楽」と呼べる。

しかし、ブレゴヴィッチの場合、それだけでは不十分だ。

彼の音楽には、融合できないものも残っている。

ロックと民俗音楽。

宗教的な響きと世俗的なダンス。

悲しみと祝祭。

過去と現代。

東欧と西欧。

これらは完全には一体化しない。

むしろ、ぶつかりながら同じ曲の中に存在する。

だからブレゴヴィッチの音楽には独特の「濁り」がある。

すべてがきれいに整理されていない。

だからこそ強い。

flowchart TD A["Sarajevo"] --> B["Yugoslav Rock"] B --> C["Bijelo Dugme"] C --> D["Film Music"] D --> E["International Collaboration"] E --> F["Wedding and Funeral Orchestra"] F --> G["Global Balkan Sound"] A --> H["Multiple Religious and Cultural Traditions"] H --> G

この流れを見ると、ブレゴヴィッチのキャリアは一直線ではない。

むしろ、出発点に戻りながら螺旋状に変化している。


1990年代以降の「世界音楽」

ブレゴヴィッチの国際的成功は、1990年代に広がった「ワールド・ミュージック」という市場とも無関係ではない。

当時、欧米のレコード市場では、アフリカ、ラテンアメリカ、アジア、東欧などの音楽が「世界音楽」というカテゴリーで紹介される機会が増えていた。

ブレゴヴィッチの音楽は、この環境と非常に相性が良かった。

しかし、彼は単純な民族音楽家ではない。

ロックの経歴がある。

映画音楽の経験がある。

ポップ・ソングを書ける。

そして、大規模なステージを作ることができる。

そのため、彼の音楽は「伝統音楽を紹介する作品」ではなく、「伝統的要素を使って新しいショーを作る作品」として成立した。

ここが大きな違いだ。


大規模ライブという完成形

ブレゴヴィッチはスタジオだけの作曲家ではない。

彼の音楽はライブで完成する。

Wedding and Funeral Orchestraは、長年にわたり世界各地で演奏を続けてきた。2010年代の公演資料では、3,000回以上のショーを行ってきたと紹介されている。

大規模な編成。

ブラス。

歌。

弦楽器。

ギター。

合唱。

そして観客。

これらが一体になる。

ここでブレゴヴィッチの音楽は、録音物とは別の意味を持つ。

レコードでは「曲」を聴く。

ライブでは「出来事」に参加する。

これは、バルカン地域の祝祭音楽が持っていた社会的な性格ともつながる。

音楽は完成した商品ではなく、人々が集まる理由になる。


祝祭は政治から逃れられない

ブレゴヴィッチの音楽には、非常に明るい瞬間が多い。

しかし、その背景にはユーゴスラヴィア崩壊という歴史がある。

だから、彼の祝祭音楽を単純に「楽しい音楽」と呼ぶことはできない。

ユーゴスラヴィアという国家が存在した時代、Bijelo Dugmeは国全体を横断する人気を獲得した。

その国家が崩壊した後、彼は国際的な音楽家になった。

つまり、彼の音楽史には「ひとつの国が存在していた時代」と「その国がなくなった時代」が同居している。

それが彼の音楽に特殊な歴史性を与えている。

『Underground』のような作品では、その歴史そのものが映画のテーマになった。

『Three Letters from Sarajevo』では、故郷の都市が異文化共存の象徴として再び登場した。

そしてWedding and Funeral Orchestraでは、国境よりも先に音楽が人を集める。

ブレゴヴィッチの祝祭は、歴史を忘れるための祝祭ではない。歴史を抱えたまま、人々が同じ場所で音楽を聴くための祝祭である。


ブレゴヴィッチとロックの関係

ここまで彼の後半の活動を見ると、ロックが消えたように感じるかもしれない。

しかし、実際には消えていない。

エレクトリック・ギター。

強いビート。

ポップなメロディ。

大音量のステージ。

観客との直接的な関係。

これらはすべてロックの文化から受け継いだものだ。

Bijelo Dugme時代に獲得したロック・スターとしての経験が、後の国際的な活動の基盤になっている。

だから彼の音楽を「民族音楽」とだけ呼ぶと、最も重要な部分を失う。

ブレゴヴィッチは、ロックを捨てて伝統へ戻ったのではない。

ロックを持ったまま伝統へ戻った。

この違いは大きい。


なぜブレゴヴィッチのメロディは強いのか

彼の曲には、非常に覚えやすい旋律が多い。

これは偶然ではない。

長年のポップ・ソング制作の経験があるからだ。

Bijelo Dugme時代には大衆向けのロック・ソングを書き、映画音楽では映像を支えるテーマを作り、ソロ活動では歌手が歌える旋律を作った。

その結果、彼の旋律は複雑な背景を持っていても、表面上は非常に分かりやすい。

これは彼の重要な才能だ。

「複雑な文化を、分かりやすいメロディにする」。

そのため、初めて聴く人でも入りやすい。

しかし、何度も聴くと、その背後にある音楽的要素が見えてくる。

ブラス。

合唱。

リズム。

旋律。

映画的な展開。

そしてロック。

ブレゴヴィッチの強さは、複雑な背景を持った音楽を、複雑に聞こえすぎない形で提示できることにある。


その音楽は「伝統」なのか「現代音楽」なのか

ブレゴヴィッチを伝統音楽家と呼ぶのは正確ではない。

しかし、完全なポップ・ミュージシャンでもない。

映画作曲家でもある。

ロック・ミュージシャンでもある。

ステージ・パフォーマーでもある。

この曖昧さこそ、彼の最大の特徴だ。

彼の音楽は、伝統を保存するためのものではない。

伝統を現代の観客へ移植するためのものでもある。

その過程で、旋律は変わる。

編成も変わる。

歌手も変わる。

ステージも変わる。

だから「本物の伝統音楽か」という問いだけでは、彼の作品を評価できない。

彼がやっているのは、伝統の再現ではなく、伝統を材料にした現代的な音楽制作だからだ。


年表:ゴラン・ブレゴヴィッチのキャリア

出来事
1950 サラエヴォで生まれる
1960年代 ヴァイオリンを学び、ロックへ接近
1960年代後半 Kodeksiなどで活動
1970年代前半 Jutroに参加
1974 Bijelo Dugmeとして活動開始
1970年代 Bijelo Dugmeがユーゴスラヴィアを代表するロック・バンドへ成長
1978 映画音楽にも進出
1980年代 Bijelo Dugmeの活動を継続しながら映画音楽へ接近
1988 『ジプシーのとき』の音楽を担当
1989 Bijelo Dugmeの活動が終盤へ
1990年代初頭 ユーゴスラヴィア崩壊を背景にパリへ移住
1993 『Arizona Dream』
1994 『王妃マルゴ』
1995 『Underground』がカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞
1990年代後半 ソロ活動と国際的なライブ活動を拡大
1998 『Tales and Songs from Weddings and Funerals』
2002 『Tales and Songs from Weddings and Funerals』期の国際活動、「My Heart Has Become Tolerant」などを展開
2005 Bijelo Dugme再結成公演
2007 『Karmen with a Happy End』
2009 『Alkohol』などを発表
2012 『Champagne for Gypsies』
2017 『Three Letters from Sarajevo』
2020年代 Wedding and Funeral Orchestraを中心に国際公演を継続
2024 欧州各地でWedding and Funeral Bandの公演
2025 オーストラリア公演など国際活動を継続

主要な年代・作品については複数の資料を照合して整理した。Bijelo Dugmeの活動年、映画作品、ソロ作品について資料間で細部に差があるため、ここでは共通して確認できる節目を中心にしている。


Bijelo DugmeからWedding and Funeral Orchestraまで

ブレゴヴィッチのキャリアを一本の線として見ると、非常に面白い流れが見えてくる。

flowchart LR A["1960s
Rock & Youth Culture"] --> B["1974
Bijelo Dugme"] B --> C["1970s–1980s
Yugoslav Rock Stardom"] C --> D["Late 1970s
Film Music"] D --> E["1988
Time of the Gypsies"] E --> F["1990s
International Film Composer"] F --> G["1993
Arizona Dream"] G --> H["1995
Underground"] H --> I["Late 1990s
Solo / Global Concerts"] I --> J["Wedding and Funeral Orchestra"] J --> K["2000s–2020s
Global Balkan Performance"]

この流れのポイントは、「過去を捨てて次へ進んだ」のではないことだ。

Bijelo Dugmeの経験は映画音楽に残った。

映画音楽の経験はソロ活動に残った。

ソロ活動の経験はライブ・オーケストラに残った。

そして、ロック時代のギターやステージ感覚は最後まで残った。

だから、ブレゴヴィッチのキャリアは断絶ではなく、積み重ねとして見ることができる。


2005年、Bijelo Dugmeが戻ってきた

2005年、Bijelo Dugmeは再結成し、旧ユーゴスラヴィア諸国の3都市で大規模な公演を行った。

これは単なる懐メロ・ライブではない。

Bijelo Dugmeが活動していた時代と、再結成された時代では、社会そのものが違っている。

バンドが存在した国家はなくなっている。

しかし、その音楽を知っている人々は残っている。

つまり、音楽だけが国境を越えて過去から現在へ運ばれた。

この再結成は、Bijelo Dugmeが単なる人気バンドではなく、ある世代の記憶そのものになっていたことを示している。

音楽は国家より長く残ることがある。

ブレゴヴィッチのキャリアは、そのことを非常に分かりやすく示している。


ブレゴヴィッチと「ユーゴスラヴィア」という記憶

彼をユーゴスラヴィア音楽史から切り離すことは難しい。

Bijelo Dugmeはユーゴスラヴィア時代に巨大な成功を収めた。

その後、国が崩壊した。

ブレゴヴィッチはパリへ移った。

そして世界各地でバルカン音楽を演奏するようになった。

ここには奇妙な逆転がある。

国家が消えたあとに、その国家の文化を象徴する音楽家が世界へ出ていった。

彼の音楽を聴く人の中には、ユーゴスラヴィアを知らない世代もいる。

それでも、ブラスとギターと合唱が鳴ると、「何か東欧的なもの」を感じる。

そこには歴史的な記憶が音楽として変換されている。


ブレゴヴィッチの音楽はどこが「ロック」なのか

一見すると、Wedding and Funeral Orchestraの音楽はロックとはかなり違う。

しかし、ロックの本質を「ギター」だけで考えなければ、つながりが見えてくる。

ロックは、既存の文化を別の形に変える音楽でもあった。

ブルース。

カントリー。

R&B。

フォーク。

ゴスペル。

それらを混ぜ、新しい大衆音楽を作った。

ブレゴヴィッチも似た方法を使っている。

バルカンの民俗音楽。

ブラス。

宗教音楽。

ロック。

ポップス。

映画音楽。

これらを組み合わせて、新しい大衆音楽を作る。

だから彼の音楽は、音色がロックでなくても、制作思想の部分では非常にロック的だ。


映画音楽家としてのブレゴヴィッチ

映画音楽では、作曲家は観客から見えないことが多い。

しかしブレゴヴィッチの場合、音楽そのものが作品の記憶になった。

『Arizona Dream』。

『Underground』。

『ジプシーのとき』。

これらの映画を知らない人でも、サウンドトラックから彼の名前を知ることができる。

映画は音楽家にとって巨大な拡声器になる。

映像によって音楽が記憶される。

そして、その音楽が映画から独立して聴かれる。

ブレゴヴィッチは、この循環を非常にうまく利用した。

映画音楽が彼の国際的な入口になり、その後のコンサート活動が彼自身の音楽世界を広げた。


世界へ出るために「自分の地域」を使う

ブレゴヴィッチの成功から、ひとつの重要な原則を見ることができる。

世界へ出るために、自分の地域性を消す必要はなかった。

むしろ逆だった。

サラエヴォ。

ユーゴスラヴィア。

バルカン。

ブラス。

民俗音楽。

宗教的な響き。

これらを彼は国際的な舞台へ持っていった。

もちろん、その過程では音楽の再構成が必要になる。

伝統をそのまま演奏するのではなく、現代の観客に届く形へ変える。

その結果、彼の音楽は「地域限定の音楽」ではなくなった。

これは21世紀の音楽文化を考えるうえでも重要だ。

グローバル化とは、すべての音楽が同じになることではない。

むしろ、地域性を強く持った音楽が世界へ移動することでもある。


ブレゴヴィッチが残した「混ざる」という方法

彼の音楽から最も大きな影響を受けるのは、特定のメロディや編曲技法だけではない。

「異なるものを同じ作品に置く」という方法そのものだ。

ロックと民俗音楽。

映画とポップス。

ブラスと弦楽器。

宗教的な歌唱とダンス。

東欧と西欧。

悲しみと祝祭。

この方法には、ひとつの思想がある。

文化は混ざる。

しかし、混ざったからといって元の文化が完全に消えるわけではない。

違いを残したまま、一緒に鳴らすことができる。

ブレゴヴィッチの音楽は、その実験を半世紀以上にわたって続けてきた。


ゴラン・ブレゴヴィッチを聴く順番

初めて聴くなら、キャリアを時系列で追う方法が分かりやすい。

まずBijelo Dugme。

ここでロック・ミュージシャンとしてのブレゴヴィッチを知る。

次に『ジプシーのとき』。

ここで民俗的な音楽と映画音楽が接続する。

その後、『Arizona Dream』。

Iggy Popを含む国際的なポップ・カルチャーとの接点を見る。

続いて『Underground』。

ここでは音楽と歴史の関係が強くなる。

そしてソロ作品。

『Tales and Songs from Weddings and Funerals』。

『Karmen with a Happy End』。

『Champagne for Gypsies』。

『Three Letters from Sarajevo』。

最後にWedding and Funeral Orchestraのライブ映像や録音へ進む。

そうすると、彼の音楽が「ロックから民族音楽へ変わった」という単純な話ではないことが見えてくる。

実際には、すべてがずっとつながっている。


ゴラン・ブレゴヴィッチという「境界線の音楽家」

ブレゴヴィッチは、ひとつの国の音楽家として説明しにくい。

生まれた場所はサラエヴォ。

若いころに活動した国はユーゴスラヴィア。

その後の生活拠点はパリ。

映画音楽ではフランス、アメリカ、東欧などさまざまな文化圏と接続した。

コンサートでは世界各地を巡る。

そして音楽そのものも、ひとつの文化だけでは成立していない。

だから彼のキャリアを地図にすると、一本の国境線では表現できない。

flowchart TD A["Sarajevo"] --> B["Yugoslavia"] B --> C["Bijelo Dugme"] B --> D["Balkan Folk Traditions"] C --> E["Rock"] D --> F["Brass / Folk / Sacred Music"] E --> G["Film Music"] F --> G G --> H["Paris"] H --> I["International Cinema"] H --> J["Global Concerts"] I --> K["Wedding and Funeral Orchestra"] J --> K

彼の音楽は、国境と国境の間にある。

ジャンルとジャンルの間にある。

過去と現在の間にある。

それが、彼の音楽を長く聴くことができる理由のひとつだ。


「バルカンの音楽」を世界へ売った男、というだけでは足りない

ゴラン・ブレゴヴィッチを「バルカン音楽を世界へ広めた音楽家」とだけ紹介すると、確かに分かりやすい。

しかし、それでは彼の半分しか見えていない。

彼はまずロック・ミュージシャンだった。

しかも、ユーゴスラヴィアで巨大な人気を持つロック・バンドの中心人物だった。

その後、映画音楽へ進んだ。

ユーゴスラヴィアが崩壊した。

パリへ移った。

国際的な映画音楽家になった。

そして再び、バルカンの音楽を中心にした大規模なライブ活動へ戻った。

つまり彼のキャリアは、

ロック → 映画 → 世界 → バルカン

という単純な移動ではない。

ロックの経験を持ったままバルカンへ戻った。

映画の経験を持ったままステージへ戻った。

ユーゴスラヴィアを失ったあとに、ユーゴスラヴィアの記憶を音楽として世界へ持っていった。

ここにブレゴヴィッチの本当の面白さがある。


半世紀を超えて残ったもの

ブレゴヴィッチのキャリアは、1950年のサラエヴォから始まった。

1960年代にはロックへ向かった。

1970年代にはBijelo Dugmeでスターになった。

1980年代には映画音楽へ進んだ。

1990年代にはユーゴスラヴィアの崩壊を経験し、パリを拠点に国際的な活動を始めた。

2000年代にはWedding and Funeral Orchestraを軸に世界各地で演奏した。

2010年代には『Three Letters from Sarajevo』のように、故郷と文化的共存を正面から扱う作品を発表した。

2020年代に入っても、Wedding and Funeral Bandによる国際公演を続けている。2024年、2025年にも欧州やオーストラリアで公演が確認されている。

つまり、彼のキャリアはすでに半世紀を超えている。

それでも音楽の中心にあるものは、意外なほど変わらない。

強いメロディ。

強いリズム。

人間の声。

ブラス。

ギター。

そして、人々を一緒にする音楽。


最後に残るのは「ジャンル」ではない

ゴラン・ブレゴヴィッチを聴くとき、「これはロックなのか」「民族音楽なのか」「映画音楽なのか」と分類したくなる。

しかし、その分類を続けるほど、彼の音楽から遠ざかってしまう。

彼のキャリアそのものが、分類の境界線を越えることで成立しているからだ。

サラエヴォで生まれた。

ユーゴスラヴィアでロック・スターになった。

映画音楽家になった。

戦争と国家の崩壊を経験した。

パリへ移った。

世界中の音楽家と仕事をした。

そしてWedding and Funeral Orchestraを率いて、再びバルカンの音楽を世界のステージへ持っていった。

その音楽には、祝祭がある。

悲しみもある。

過去もある。

現在もある。

ロックもある。

民俗音楽もある。

そして、それらを完全にひとつへ溶かしてしまわないところに、ブレゴヴィッチの面白さがある。

違うものが違うまま、同じ曲の中で鳴っている。

それこそが、サラエヴォという都市から始まった彼の音楽人生を最もよく表している。

ゴラン・ブレゴヴィッチの音楽は、ひとつの国やひとつのジャンルを代表する音楽ではない。異なる文化、時代、記憶が同じステージで鳴り続ける、その「境界線」そのものなのである。


Monumental Movement Records

Monumental Movement Records