Azymuthとは何だったのか
文:mmr|テーマ:ブラジルのサンバ、ジャズ、ファンク、電子音楽を一つのグルーヴへ結びつけ、1970年代から2025年まで進化し続けたAzymuth。その半世紀を追いながら、なぜ彼らの音楽が何度も未来として再発見されたのかをたどる
Azymuthという名前を聞くと、多くの人はまず「ブラジリアン・ジャズ」や「ジャズ・ファンク」という言葉を思い浮かべるかもしれない。
しかし、それだけではこのグループの音楽が持っていた奇妙な広がりを説明しきれない。
サンバのリズムがある。
ボサノヴァの感触もある。
ジャズの即興性がある。
ファンクのベースがある。
さらにシンセサイザーや電子楽器が入り、ディスコやフュージョンへ接続していく。
しかも、それらが単純に順番に現れるわけではない。
同じ曲の中で、サンバの身体性と電子音の未来感が同居する。
ベースは踊るための音楽を支えながら、ジャズのように自由に動く。
ドラムはリズムを刻むだけではなく、曲そのものを押したり引いたりする。
キーボードはコードを埋める楽器ではなく、旋律、リズム、音色、空間を同時に変えていく。
この三人の関係が、Azymuthという音楽の中心にあった。
オリジナル・メンバーはJosé Roberto Bertrami、Alex Malheiros、Ivan Contiの三人。
キーボード、ベース、ドラム。
極めてシンプルな編成である。
しかし、そのシンプルさがAzymuthの特徴を作った。
三人しかいないからこそ、一人の演奏がそのまま全体の構造を変える。
ベースが動けば、曲の重心が動く。
ドラムが変われば、リズムの意味が変わる。
キーボードが音色を変えれば、同じリズムでも景色が変わる。
Azymuthは、巨大なバンドのように多くの楽器を重ねることで豊かになったのではない。
三人の役割そのものを広げることで、音楽を大きくした。
そして、この発想は1970年代だけのものではなかった。
1980年代の電子化にも、1990年代以降のクラブ・ミュージックとの接続にも、2000年代以降の再評価にも、2025年の新作にもつながっている。
Azymuthの歴史は、ジャンルを増やした歴史ではない。三人の音楽が、その時代ごとに別の場所へ接続していった歴史である。
リオデジャネイロで始まった三人
Azymuthの物語を理解するには、まず1960年代のリオデジャネイロを見る必要がある。
José Roberto Bertrami、Alex Malheiros、Ivan Contiは、後にAzymuthを作る前から、それぞれ音楽家として活動していた。
当時のリオでは、ボサノヴァやジャズを中心とした音楽シーンが広がっていた。
彼らはその環境の中で、セッション・ミュージシャンとして仕事をしていた。
つまり、最初から「自分たちのバンドだけで活動していた三人」ではない。
他の音楽家のために演奏する。
さまざまな録音に参加する。
異なるタイプの曲を演奏する。
その経験が、後のAzymuthの音楽的な柔軟性につながっていく。
三人が一緒に演奏するようになったのは1960年代後半。
Far Out Recordingsの資料では、1968年にGroup Projeto 3という名前で最初の共同録音を行ったとされている。
ここで重要なのは、Azymuthが最初から完成したコンセプトとして存在していたわけではないことだ。
彼らはまず、演奏家として出会った。
そして演奏を重ねる中で、三人の組み合わせそのものに可能性があることが見えてきた。
この点は、Azymuthの後の音楽を考えるうえで重要である。
彼らのサウンドには、最初から「ジャズとファンクを融合しよう」といった単純な設計図があったわけではない。
それぞれが持っていた経験が、三人で演奏することで混ざっていった。
ブラジル音楽。
アメリカのジャズ。
セッション音楽。
リズム音楽。
そして、1960年代末から1970年代にかけて急速に変化していった電子楽器。
そのすべてが、少しずつ彼らの中へ入っていった。
Azymuthというグループが面白いのは、後から振り返ると非常に革新的に聞こえる音楽が、当時の彼らにとっては「三人で演奏していく方法」の延長線上にあったことだ。
Azymuthは、未来を予言するために集まった三人ではなかった。異なる仕事と経験を持つ三人が、一緒に演奏することで未来的な音を作っていった。
「Azimuth」という名前がバンドになるまで
1970年代に入ると、三人の活動はさらに広がっていく。
その転機の一つがMarcos Valleとの仕事だった。
Marcos Valleはブラジル音楽を代表する作曲家、歌手、プロデューサーの一人であり、Azymuthの三人とも音楽的な接点を持つ人物だった。
1972年、ブラジルのF1ドライバー、Emerson Fittipaldiを題材にした作品『O Fabuloso Fittipaldi』の録音に彼らが参加する。
そこに収録された楽曲の一つが「Azimuth」だった。
そして、この曲名が後のグループ名になる。
これはAzymuthの歴史の中でも象徴的な出来事だ。
バンド名を最初に決め、その名前に合わせて音楽を作ったのではない。
先に音楽があり、その音楽の名前がグループ名になった。
「Azimuth」という言葉は方位角を意味する。
音楽グループの名前としても、方向や位置を連想させる言葉だ。
後から見ると、この名前はAzymuthの音楽と不思議な相性を持っている。
彼らの音楽は一つの方向に進み続けなかった。
ジャズへ行き、サンバへ戻り、ファンクへ進み、電子音へ向かう。
さらにディスコ、フュージョン、クラブ・ミュージック、ヒップホップ、ハウスへ接続していく。
一つの地点に留まるのではなく、音楽の方向を変えながら進んでいく。
もちろん、これは後から見た歴史的な解釈である。
当時の三人が「Azimuth」という名前に未来の全歴史を託したわけではない。
しかし、結果として彼らの音楽は、非常に多くの方向へ進むことになった。
1970年代初頭の活動量も重要だった。
Far Out Recordingsによれば、José Roberto Bertramiの自宅は初期の録音活動の中心の一つとなり、三人は非常に多くの音楽制作に関わっていた。
スタジオに入って、決められた曲を演奏する。
その経験から、今度は自分たちで音を組み立てる。
この循環が、Azymuthの音楽を急速に成熟させた。
Azymuthという名前は、一つのジャンルを示す名前ではなかった。そして実際、彼らの音楽も一つのジャンルには収まらなかった。
最初のアルバムが作ったAzymuthの輪郭
1970年代前半の活動を経て、Azymuthは1975年に最初のアルバム『Azimuth』を発表する。
ここから、三人の音楽は一つのバンドの作品としてまとまっていく。
この時期のAzymuthを聴くと、後年の「Jazz Carnival」だけを知っている場合とはかなり違った印象を受ける。
音楽にはブラジルらしいリズムがある。
しかし、単純なブラジリアン・ジャズではない。
キーボードの音色には当時の電子楽器らしい質感があり、リズムにはジャズ・ファンクへ向かう動きがある。
そして、三人の演奏にはセッション・ミュージシャンとして培った精度がある。
この「精度」と「自由さ」の同居がAzymuthの重要な特徴だった。
ジャズだけなら、即興性を中心に考えられる。
ファンクなら、反復するグルーヴが中心になる。
サンバなら、リズムの細かな揺れが重要になる。
Azymuthは、そのどれかを選ばなかった。
三つを同時に成立させようとした。
そのため、彼らの音楽には「曲として分かりやすいのに、演奏は簡単には説明できない」という感触が生まれる。
ベースラインは踊れる。
ドラムは強い。
しかし、その上でキーボードが自由に動く。
それぞれの楽器が独立して聞こえるのに、全体としては一つのグルーヴになる。
これは三人編成ならではの特徴でもある。
楽器が少ないため、各パートが隠れない。
ベースが何をしているかが分かる。
ドラムの細かな変化が聞こえる。
キーボードの音色変化も前面に出る。
そして三人が同じ方向へ動いた瞬間、音楽の密度が急激に高くなる。
Azymuthの初期作品には、後の作品につながるこの構造がすでに存在している。
1977年には『Águia Não Come Mosca』を発表する。
この作品はブラジル国内だけでなく、アメリカや日本にも紹介され、Azymuthの国際的な活動を後押しした。
そして、その先に1979年の大きな転換点が待っていた。
1975年の『Azimuth』は、Azymuthという名前を作品として定着させた。そして1977年の『Águia Não Come Mosca』は、その音楽がブラジル国内だけに留まらないことを示した。
「Jazz Carnival」がAzymuthを世界へ運ぶ
Azymuthの名前を世界中に広げた作品として最も知られているのが、1979年の『Light as a Feather』である。
このアルバムはMilestone Recordsからリリースされた。
そして収録曲「Jazz Carnival」が大きなヒットとなる。
「Jazz Carnival」はAzymuthを説明するうえで非常に特殊な曲だ。
タイトルにはジャズという言葉がある。
しかし、音楽はジャズだけではない。
ブラジルのリズム感覚がある。
ファンクの反復がある。
ディスコへつながるダンス・ミュージックとしての構造がある。
そして電子楽器が、曲全体を未来的な空間へ押し出している。
この組み合わせが、1979年という時代に非常に強く響いた。
「Jazz Carnival」はイギリスでも大きな反応を得て、1980年にはUKシングル・チャートで19位まで上昇したと記録されている。
『Light as a Feather』そのものも国際的に成功し、英国で長期間チャートに入った。
ここで面白いのは、Azymuthが「ジャズ・バンドとしてヒットした」のではないという点である。
彼らの音楽はジャズを含んでいた。
しかし、ヒットした理由をジャズだけで説明することはできない。
ダンス・ミュージックとして機能した。
ブラジリアン・ミュージックとしても機能した。
ファンクとしても機能した。
フュージョンとしても聴けた。
そして電子音楽としての魅力もあった。
つまり、一つの市場だけに向けた音楽ではなかった。
この性質は、後のAzymuthの歴史を理解するために非常に重要である。
Azymuthは、その時代に最も流行していたジャンルへ完全に乗り換えることをしなかった。
むしろ、自分たちがすでに持っていた音楽的要素の中から、別の時代にも接続できる部分を発見していった。
『Light as a Feather』には、「Partido Alto」「Avenida Das Mangueiras」「Light as a Feather」「Fly Over the Horizon」「Amazonia」「Jazz Carnival」などが収録されている。
それぞれが異なる表情を持つ。
それでもアルバム全体としては、Azymuthの音楽としてまとまっている。
この作品では、スタジオそのものも重要な役割を果たした。
キーボード、シンセサイザー、オルガン、ボコーダーなど、多様な音色が使われている。
ドラム側にも電子楽器が取り入れられた。
つまり、Azymuthは三人の生演奏だけでなく、録音技術そのものを音楽の一部として扱う方向へ進んでいた。
これは後の電子音楽との接続を考えるうえでも重要である。
「Jazz Carnival」はAzymuthを有名にした曲だった。しかし、その本当の特徴は、ジャズ、サンバ、ファンク、ディスコ、電子音楽のどれか一つでは説明できないところにある。
三人の役割が、そのままAzymuthの音になる
Azymuthの音楽を理解するには、メンバーそれぞれの役割を見る必要がある。
まずJosé Roberto Bertrami。
彼はキーボード奏者であり、作曲家、アレンジャーとしてもAzymuthの音楽に大きく関わった。
彼の存在によって、Azymuthのサウンドには多彩な電子音色が入った。
ピアノだけではない。
エレクトリック・ピアノ。
オルガン。
シンセサイザー。
ボコーダー。
さまざまな音色が一つの曲の中に入り込む。
しかし、重要なのは「たくさんの音を使った」ということではない。
Bertramiのキーボードは、リズムの中へ入り込む。
コードを弾くだけではなく、リズムそのものを作る。
短いフレーズを反復する。
音色を変える。
空間を埋める。
そして、時にはベースやドラムと同じくらい強いグルーヴを作る。
次にAlex Malheiros。
ベースはAzymuthの身体的な部分を担う。
ブラジル音楽のリズムとファンクのグルーヴをつなぐ役割を持つ。
Azymuthの音楽を聴いていると、ベースが単に低音を担当しているわけではないことが分かる。
ベースラインそのものが旋律として機能する。
曲の動きを決める。
キーボードが自由に動けるのも、ベースがグルーヴを維持しているからだ。
そしてIvan Conti。
彼のドラムとパーカッションは、Azymuthのリズムに複雑な動きを与えた。
ブラジル音楽のリズム感覚とジャズの自由な反応。
さらに電子楽器を使った音色へのアプローチ。
それらが混ざっている。
この三人を別々に考えると、Azymuthの音は説明しやすい。
キーボード。
ベース。
ドラム。
しかし、三人が一緒になると説明が難しくなる。
なぜなら、それぞれが他の二人の役割へ入り込んでいるからだ。
ベースがメロディになる。
ドラムが旋律的に聞こえる瞬間がある。
キーボードがパーカッションのように動く。
その境界が曖昧になる。
Azymuthの「三人しかいないのに音が大きい」という感覚は、ここから生まれる。
Azymuthの三人は、それぞれの担当楽器を守ることでバンドを作ったのではない。それぞれの楽器の役割を広げることで、三人だけの大きな音を作った。
「Samba Doido」という考え方
Azymuthの音楽を語る際によく使われる言葉の一つが「Samba Doido」だ。
直訳すれば「Crazy Samba」。
この言葉は、彼らの音楽を理解するうえで非常に分かりやすい。
なぜなら、Azymuthの音楽には確かにサンバがある。
しかし、普通の意味でのサンバだけではない。
ジャズが入り込む。
ファンクが入り込む。
電子音が入り込む。
ロック的な感覚も現れる。
ディスコへも接続する。
つまり、サンバを別の音楽へ置き換えるのではなく、サンバを中心にして周囲の音楽を混ぜていく。
ここにはブラジル音楽の歴史そのものも関係している。
ブラジルでは、異なる音楽文化が長い時間をかけて混ざり合ってきた。
Azymuthもその環境の中にいた。
だから、ジャズとサンバを組み合わせることは、彼らにとって完全に異質な行為ではなかった。
問題は、その組み合わせをどこまで進めるかだった。
Azymuthはそこからさらに電子楽器へ進んだ。
そして、ファンクへ進んだ。
ディスコへも進んだ。
それでもブラジルのリズム感覚を失わなかった。
この点が、Azymuthを単なる「ブラジル版ジャズ・ファンク」にしなかった。
彼らは外から来た音楽をそのまま輸入したわけではない。
自分たちのリズム感覚の中へ取り込んだ。
だから、同じシンセサイザーを使っていても、アメリカやヨーロッパのフュージョンとは違う響きになる。
同じファンクでも、重心が違う。
同じディスコでも、身体の動きが違う。
同じ電子音でも、背景にあるリズムが違う。
それがAzymuthの個性だった。
「Samba Doido」は、何でも混ぜるという意味ではない。サンバを中心に、ジャズ、ファンク、電子音楽などを自分たちのリズム感覚へ取り込む方法だった。
『Outubro』から1980年代へ
1979年の『Light as a Feather』が世界的な成功を収めた後、Azymuthは一つのスタイルに固定されなかった。
1980年には『Outubro』を発表する。
そして1980年代には『Telecommunication』『Cascades』『Rapid Transit』『Flame』『Spectrum』『Tightrope Walker』『Crazy Rhythm』『Carioca』など、多くの作品を発表していく。
この時期は、Azymuthの音楽にとって電子化がさらに進んだ時代でもある。
1980年代は音楽制作の技術そのものが急速に変化した。
シンセサイザーが広く使われるようになる。
ドラムマシンや電子的な音色も音楽の中へ入ってくる。
録音技術も変わる。
Azymuthにとって、これは単なる流行ではなかった。
彼らはすでに1970年代から電子楽器を使っていた。
そのため、1980年代の技術変化は、彼らにとって新しい方向へ進むための自然な材料になった。
1982年の『Telecommunication』は、その名前自体が象徴的だ。
「Telecommunication」。
通信。
距離を越えて音が伝わる。
Azymuthの音楽がブラジルのローカルなシーンだけではなく、国際的な音楽市場へ広がっていった時期に、このタイトルが現れる。
この時期のAzymuthは、アメリカやヨーロッパでも活動を続け、作品を発表した。
しかし、重要なのは「海外へ行ったから音楽が国際化した」という単純な話ではない。
Azymuthの音楽は最初から、複数の音楽文化を同時に扱っていた。
だから、海外へ出たときにも「ブラジル音楽」と「海外音楽」を別々にする必要がなかった。
彼ら自身の音楽が、すでに境界をまたいでいたからだ。
1980年代後半になると、音楽産業の環境も変化していく。
ニューウェーブ。
エレクトロニック・ミュージック。
ヒップホップ。
ハウス。
さまざまな新しい音楽が登場する。
Azymuthの作品は、こうした後の音楽文化にも接続できる要素を持っていた。
ただし、この時点で彼らが「クラブ・ミュージックのために音楽を作っていた」と考えるのは正確ではない。
彼ら自身はあくまで自分たちの音楽を作っていた。
後になって、その音楽を別の世代のDJやプロデューサーが発見した。
ここにAzymuthの特殊な寿命がある。
1980年代のAzymuthは、時代に合わせて別のバンドになったのではない。新しい技術を自分たちの音楽へ加えながら、同じ三人の基本構造を拡張していった。
いったん過去の音楽になったAzymuth
1980年代の活動が終わり、1990年代に入ると、Azymuthの存在感は1970年代後半から1980年代前半ほど目立たなくなる。
しかし、ここで物語が終わらなかった。
むしろ別の場所でAzymuthの音楽が再発見されていく。
1990年代以降、クラブ文化では過去のジャズ、ファンク、ソウル、ブラジリアン・ミュージックを掘り直す動きが強くなった。
レコードを探すDJたちは、チャートから消えていた作品の中から新しい音を発見する。
Azymuthの音楽も、その流れの中で再び注目されるようになった。
特に「Jazz Carnival」のような曲は、ダンス・ミュージックとして改めて聴くことができた。
しかし、面白いのは「昔のヒット曲が再発見された」だけではない。
Azymuthの作品には、アルバム全体を聴くことで分かる実験性があった。
曲の構造。
ベースライン。
ドラムの細かな変化。
電子音。
録音技術。
こうした要素が、1990年代以降のクラブ・ミュージックを聴く耳でも新鮮に響いた。
そして、リミックスという文化がその価値をさらに広げた。
Azymuthの楽曲は、Jazzanova、Theo Parrish、Ron Trent、Global Communicationなど、異なる背景を持つアーティストやプロデューサーによってリミックスされている。
ここで重要なのは、Azymuthの音楽が「過去の作品」として保存されただけではないことだ。
新しい音楽家が、自分たちの現在の音楽の材料として使った。
これは、過去の音楽が現在へ戻る一つの方法だった。
そしてAzymuthは、1990年代半ば以降、ロンドンのFar Out Recordingsとの関係を深めていく。
Far Outはブラジル音楽とジャズ、ファンクなどを扱うレーベルであり、Azymuthの過去の作品を新しいリスナーへ紹介する重要な役割を担った。
この関係によって、Azymuthは再び国際的な音楽シーンの中へ入っていく。
Azymuthは一度古くなったのではない。別の世代が別の目的で聴き始めたことで、同じ録音が別の意味を持つようになった。
Far Out Recordingsと第二の人生
1990年代後半から2000年代にかけて、AzymuthはFar Out Recordingsから作品を発表していく。
『Carnival』。
『Woodland Warrior』。
『Pieces of Ipanema』。
『Before We Forget』。
『Partido Novo』。
『Brazilian Soul』。
『Butterfly』。
こうした作品によって、Azymuthは過去のグループではなく、現在進行形の音楽家として再び存在感を持つようになった。
ここで大切なのは、再評価だけではない。
Azymuth自身が新しい音楽を作り続けたことだ。
過去の代表曲だけを演奏するグループにならなかった。
新しいアルバムを作る。
新しい音を試す。
新しい世代のリスナーへ届ける。
それが続いた。
そして、Far Outというレーベルの性格もAzymuthと相性が良かった。
Azymuthの音楽は、ジャンルの境界を一つずつ説明するよりも、音そのものを聴いたほうが早い。
ジャズとして聴いてもいい。
ファンクとして聴いてもいい。
ブラジリアン・ミュージックとして聴いてもいい。
クラブ・ミュージックの素材として聴いてもいい。
電子音楽の歴史として聴くこともできる。
そのすべてが同時に成立する。
2000年代以降、Azymuthの作品は再発やリミックスによって新しい世代へ届くようになった。
2008年の『Butterfly』。
2011年の『Aurora』。
2012年の『Light as a Feather』再発。
2013年の『Aurora Remixes + Originals』。
2015年の『Azimuth』再発。
2016年の『Outubro』再発。
2016年の『Fênix』。
この流れを見ると、一つのバンドの過去と現在が同時に動いていたことが分かる。
過去の作品が再発される。
一方で、新しい作品も作られる。
過去を保存しながら、現在を更新する。
これがAzymuthの第二の人生だった。
Far Out Recordings期のAzymuthは、過去を復元するだけではなかった。過去の音楽を現在へ戻しながら、自分たち自身も新しい音楽を作り続けた。
José Roberto Bertramiの死と大きな転換
2012年7月8日、José Roberto Bertramiが亡くなる。
66歳だった。
これはAzymuthにとって非常に大きな転換点だった。
Bertramiは単なるキーボード奏者ではなかった。
Azymuthの作曲、アレンジ、電子音色、サウンドの方向性に深く関わっていた。
そのため、彼を失ったことで、オリジナルの三人組はそのままの形では存在できなくなった。
しかし、Azymuthは活動を止めなかった。
Alex MalheirosとIvan Contiは活動を続け、新しいキーボード奏者としてKiko Continentinoを迎える。
ContinentinoはMilton NascimentoやGilberto Gilなどとの活動でも知られるミュージシャンだった。
そして2016年、彼を迎えたAzymuthは『Fênix』を発表する。
「Fênix」というタイトルは、まさにこの時期を象徴するものになった。
しかし、ここでもAzymuthは過去を完全に再現しようとはしなかった。
Bertramiの代わりを探すだけではなく、新しいメンバーと新しいAzymuthを作った。
これは長寿バンドにとって非常に難しいことだ。
昔のファンは昔の音を求める。
新しいメンバーには新しい個性がある。
その二つをどう結びつけるか。
Azymuthは、名前を維持することだけではなく、音楽を維持することでその問題に向き合った。
『Fênix』は2016年12月にFar Out Recordingsから発表された。
そして、その後もAzymuthはライブ活動を続けていく。
2019年には1973年から1975年に録音されたデモ音源を集めた『Demos 1973-75』が発売された。
ここには、Azymuthがまだ世界的に知られる前の音源が収録された。
つまり、2010年代のAzymuthには三つの時間が同時に存在していた。
1970年代のデモ。
1970年代後半から1980年代の代表作。
そして2010年代の新作。
過去と現在が一つのディスコグラフィーの中で並んだ。
Bertramiの死はAzymuthの終わりではなかった。それは、オリジナル三人組の時代から、音楽そのものを引き継ぐ新しい時代への転換だった。
『Demos 1973-75』が見せた始まりの音
2019年に発表された『Demos 1973-75』は、Azymuthの歴史を考えるうえで特に重要な作品である。
なぜなら、そこには彼らがまだ世界的な成功を収める前の音楽が残されているからだ。
完成された代表作ではない。
デモである。
だからこそ、後のAzymuthの音楽がどこから生まれたのかを考える材料になる。
1970年代半ば。
まだ「Jazz Carnival」は存在しない。
国際的な成功もない。
しかし、三人の間にはすでに独特の化学反応がある。
ジャズ。
ファンク。
サンバ。
電子音。
それらがまだ完全には整理されていない状態で動いている。
ここが面白い。
後から有名になった音楽は、完成された形だけを聴くと「最初からそうだった」と感じてしまう。
しかし、デモを聴くと、そこには試行錯誤がある。
アイデアがある。
リズムがある。
そして、完成作品へ向かっていく途中の姿がある。
Azymuthは最初から完成した未来の音楽家ではなかった。
演奏を重ねながら、少しずつ自分たちの方法を作っていった。
このことは、2019年という時点で過去の録音を公開する意味にもつながる。
Azymuthの歴史を「ヒット曲の歴史」だけで見る必要がなくなるからだ。
「Jazz Carnival」が突然生まれたのではない。
その前に、何年ものセッションと実験があった。
そして、その実験の中には、後のAzymuthの特徴につながる要素がすでにあった。
『Demos 1973-75』が見せたのは、完成したAzymuthではない。完成する前から、三人の間にすでにAzymuthらしい音楽が存在していたということだった。
『Azymuth JID004』と新しい世代との接続
2020年には、AzymuthはAdrian YoungeとAli Shaheed MuhammadによるJazz Is Deadプロジェクトとも接続する。
この作品は『Azymuth JID004』として発表された。
ここには、Azymuthが別の世代の音楽家と共同制作する姿がある。
これは、Azymuthの歴史にとって非常に重要だ。
なぜなら、彼らの音楽が「再発される過去」ではなく、「新しい音楽家と一緒に作られる現在」として扱われているからだ。
Azymuthの音楽には、もともとサンプリングやリミックスと相性の良い要素があった。
ベースライン。
ドラム。
電子音。
短いキーボードフレーズ。
これらは後のヒップホップやハウスの制作環境とも接続しやすい。
しかし、Azymuth自身が新しい世代のプロデューサーと録音すると、単純なサンプリングとは違う。
そこには演奏そのものがある。
生のドラムがある。
ベースが動く。
キーボードが反応する。
そして、それを現代的な録音環境が捉える。
Azymuthの過去と現在が、同じスタジオで交差する。
これは彼らの音楽が長く残ってきた理由の一つでもある。
Azymuthの音楽は、完成された時代の中だけで完結していなかった。
次の世代が何を必要としているかによって、別の側面が見えてくる。
ジャズを探している人にはジャズが聞こえる。
ファンクを探している人にはファンクが聞こえる。
電子音楽を探している人には電子音が聞こえる。
クラブ・ミュージックを探している人にはグルーヴが聞こえる。
ブラジル音楽を探している人にはサンバが聞こえる。
同じ録音なのに、入口が違う。
この性質こそ、Azymuthの長寿を支えた重要な要素だった。
Azymuthは過去の音を未来へ持ち込んだだけではない。未来の音楽家たちと同じ場所で演奏することで、過去の音そのものをもう一度現在にした。
Ivan Contiとリズムの歴史
2023年4月、Ivan “Mamão” Contiが亡くなる。
76歳だった。
これによって、オリジナル三人組のうち二人が失われた。
Bertramiが2012年。
Contiが2023年。
残ったオリジナル・メンバーはAlex Malheirosとなった。
これはAzymuthの歴史におけるもう一つの大きな転換点である。
Contiは単なるドラマーではなかった。
Azymuthの音楽では、ドラムがブラジルのリズム感覚とジャズの反応性をつなぐ中心だった。
彼の演奏は、単純な「4拍子のドラム」では説明できない。
細かなパーカッション。
シンコペーション。
アクセント。
電子楽器。
そしてベースとの細かなやり取り。
これらがAzymuthのグルーヴを作っていた。
さらにContiはAzymuth以外の活動でも音楽を広げた。
ソロ作品を発表し、2008年にはMadlibとJackson Conti名義で『Sujinho』を制作した。
ここでも、ブラジルのリズムとヒップホップの制作感覚が交差している。
つまりConti自身が、Azymuthの音楽が後の世代へ接続するための橋の一つだった。
彼が亡くなったことで、Azymuthのオリジナル三人組は歴史上の存在となった。
しかし、Azymuthという名前は残った。
そして残されたAlex Malheirosは、新しいメンバーとともに活動を続けることを選んだ。
Ivan Contiのドラムは、Azymuthのリズムを支えるだけではなかった。そのリズムそのものが、Azymuthという音楽の言語の一部だった。
2025年、『Marca Passo』で名前が再び動き出す
2025年、Azymuthは『Marca Passo』を発表した。
Far Out Recordingsから6月6日にリリースされたこのアルバムは、1975年の『Azimuth』から50年という節目に位置する作品となった。
これは単なる記念作ではない。
José Roberto Bertramiを失い、Ivan Contiも失った後のAzymuthが、現在のメンバーによって新しいアルバムを作ったからだ。
『Marca Passo』ではAlex Malheirosがオリジナル・メンバーとして残り、キーボードにKiko Continentino、ドラムにRenato Massaが参加している。
作品には「Fantasy ‘82」「Belenzinho」「Marca Tempo」「Andaraí」「Arabutã」「Samba Pro Mamão」「O Mergulhador」「Last Summer in Rio」などが収録されている。
「Last Summer in Rio」にはIncognitoのJean-Paul “Bluey” Maunickが参加している。
また「Samba Pro Mamão」はIvan Contiに捧げられた新曲として収録された。
ここにはAzymuthの過去が明確に残っている。
しかし、それは過去をそのまま再現するためではない。
Bertramiの楽曲を新しい演奏で取り上げる。
Contiを記憶する。
そして、新しいメンバーによる演奏を加える。
過去と現在を同じアルバムの中に置く。
『Marca Passo』という作品は、その意味でAzymuthの歴史そのものを反映している。
50年前に始まったバンドが、50年後に同じ音を再現するのではなく、同じ名前の下で新しい音楽を作る。
これは長寿バンドにとって大きな問題でもある。
何を残すのか。
何を変えるのか。
どこまでがAzymuthなのか。
しかし、Azymuthの場合、その答えは比較的はっきりしている。
メンバーが変わっても、音楽を作る中心にあるのはグルーヴだ。
ベースとドラムの関係。
キーボードの音色。
ブラジルのリズム。
ジャズ的な自由さ。
電子音への関心。
これらが残る限り、Azymuthの音楽は新しい形を取り得る。
『Marca Passo』は50年前のAzymuthを保存するためのアルバムではない。50年前に始まった音楽を、現在のメンバーがどう続けるかを記録したアルバムである。
Azymuthの音楽を構成する四つの軸
Azymuthの半世紀を振り返ると、その音楽にはいくつかの軸が繰り返し現れている。
サンバ
まずサンバ。
これはAzymuthのリズムの基礎にある。
ただし、伝統的なサンバをそのまま再現するわけではない。
ジャズやファンクと接続することで、リズムの意味を変えていく。
ジャズ
次にジャズ。
即興性。
ハーモニー。
演奏者同士の反応。
三人で演奏するAzymuthにとって、ジャズの考え方は重要だった。
曲が完全に固定された構造だけで進まない。
演奏の中で変化する余地がある。
ファンク
そしてファンク。
Azymuthの音楽を身体的なものにしている。
ベースとドラムがグルーヴを作る。
その上にキーボードが乗る。
「Jazz Carnival」のような楽曲がダンス・ミュージックとして機能したのも、この部分があるからだ。
電子音楽
最後が電子音楽。
Azymuthは1970年代から電子楽器を積極的に使った。
シンセサイザー。
ボコーダー。
電子的なドラム音。
エフェクト。
こうした音色は単なる装飾ではなかった。
Azymuthの世界観そのものを作った。
この四つを重ねると、Azymuthの音楽がなぜジャンル名だけでは説明しにくいのかが見えてくる。
サンバだけではない。
ジャズだけでもない。
ファンクだけでもない。
電子音楽だけでもない。
四つが同じ音楽の中で動いている。
Azymuthの個性は、一つのジャンルを極端に追求したことではない。複数の音楽言語を、同じグルーヴの中で成立させたことにある。
なぜAzymuthは電子音楽の歴史にもつながるのか
Azymuthはブラジリアン・ジャズ・ファンクのグループとして紹介されることが多い。
しかし、彼らの音楽を電子音楽の歴史から聴き直すこともできる。
理由は単純だ。
早い時期から電子楽器を使っていたからである。
もちろん、Azymuthがテクノやハウスを作っていたわけではない。
しかし、後の電子音楽が重視する要素を持っていた。
反復。
音色。
低音。
リズム。
スタジオ編集。
空間。
これらはAzymuthの音楽にも存在する。
特に「Jazz Carnival」のような曲は、ジャズの曲としても聴けるし、ファンクの曲としても聴ける。
そして、リズムと音色に注目すれば、クラブ・ミュージックの前史のようにも聞こえる。
実際、後の世代のDJやプロデューサーがAzymuthを発見したことで、その側面が強く意識されるようになった。
ここで重要なのは、Azymuthが「未来を予言した」という表現を安易に使わないことだ。
彼らが未来の音楽を予知していたわけではない。
当時の彼らが、自分たちの音楽に必要な音を探していた。
その結果として、後の時代にも使える音が残った。
これがAzymuthの強さだった。
時代を先取りしようとしたのではない。
自分たちの音楽を広げようとした。
その結果、後の時代から見ると未来的に聞こえた。
Azymuthが未来的なのは、未来を予測したからではない。その時代に必要だと思った音を自由に取り込んだからこそ、後の時代にも使える音が残った。
三人組という最小単位の強さ
Azymuthの歴史を見ていると、もう一つ重要なことが見えてくる。
それは、三人という人数である。
キーボード。
ベース。
ドラム。
この編成は、音楽として非常に柔軟だ。
ベースとドラムでグルーヴを作れる。
キーボードでハーモニーを作れる。
さらに三人それぞれが複数の役割を担える。
そのため、人数以上に大きな音が出る。
これはAzymuthが長く活動できた理由の一つでもある。
三人で演奏するため、一人ひとりの個性が直接音楽に現れる。
同時に、一人が変わるとバンド全体の音も変わる。
Bertramiがいた時代。
Continentinoが加わった時代。
Contiがいた時代。
Renato Massaが加わった時代。
同じAzymuthという名前でも、音楽の表情は変化する。
しかし、中心にある構造は残る。
ベースとドラム。
キーボード。
ブラジルのリズム。
そして即興的な反応。
この構造が残る限り、Azymuthは変化できる。
これは固定されたバンド・サウンドとは逆の考え方だ。
「Azymuthらしさ」を音色だけで定義しない。
楽器の役割と関係性で定義する。
だから、シンセサイザーが変わってもいい。
録音技術が変わってもいい。
ドラマーが変わってもいい。
キーボード奏者が変わってもいい。
音楽の中心にある関係性が残れば、新しい形を作ることができる。
Azymuthの強さは、三人の名前だけにあったのではない。三つの楽器が互いの役割を変化させる、その関係そのものにあった。
Azymuthの半世紀をたどる年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1960年代 | José Roberto Bertrami、Alex Malheiros、Ivan Contiがリオデジャネイロの音楽シーンでセッション・ミュージシャンとして活動 |
| 1968 | Group Projeto 3名義で三人の共同録音が行われる |
| 1970年代初頭 | Marcos Valleとの活動などを通して三人の音楽的結びつきが強まる |
| 1972 | 『O Fabuloso Fittipaldi』関連作品で「Azimuth」を録音 |
| 1970年代前半 | Azymuthとしての活動を本格化 |
| 1975 | デビュー・アルバム『Azimuth』を発表 |
| 1977 | 『Águia Não Come Mosca』を発表 |
| 1979 | 『Light as a Feather』をMilestoneから発表。「Jazz Carnival」が国際的ヒットとなる |
| 1980 | 『Outubro』を発表 |
| 1981 | 『Telecommunication』を発表 |
| 1982 | 『Cascades』を発表 |
| 1983 | 『Rapid Transit』を発表 |
| 1984 | 『Flame』を発表 |
| 1985 | 『Spectrum』を発表 |
| 1986 | 『Tightrope Walker』を発表 |
| 1987 | 『Crazy Rhythm』を発表 |
| 1988 | 『Carioca』を発表 |
| 1990年代 | 過去作品がクラブ・ミュージックやDJ文化の中で再評価される |
| 1990年代後半 | Far Out Recordingsとの関係が深まり、新作・再発が進む |
| 2000 | 『Before We Forget』を発表 |
| 2004 | 『Brazilian Soul』を発表 |
| 2008 | 『Butterfly』を発表 |
| 2011 | 『Aurora』を発表 |
| 2012 | José Roberto Bertramiが死去 |
| 2013 | 『Aurora Remixes + Originals』を発表 |
| 2015 | 『Azimuth』再発 |
| 2016 | 『Outubro』再発、『Fênix』を発表 |
| 2019 | 1973〜1975年のデモを収録した『Demos 1973-75』を発表 |
| 2020 | 『Azymuth JID004』をJazz Is Deadから発表 |
| 2023 | Ivan Contiが死去。Azymuthは新ドラマーを迎えて活動を継続 |
| 2024 | 「Jazz Carnival」再発など、過去作品の再紹介が続く |
| 2025 | 『Marca Passo』を発表。1975年のデビューから50年を迎える |
この年表を見ると、Azymuthの歴史は一つのピークへ向かって一直線に進んだものではなく、何度も形を変えながら続いてきたことが分かる。
Azymuthの音楽が広げた地図
Azymuthの音楽を一つのジャンルに置くことが難しい理由は、彼らが実際に多くの音楽文化と接続してきたからだ。
ブラジル国内では、サンバやボサノヴァ、MPBの文脈がある。
ジャズの世界では、フュージョンや即興の歴史がある。
ファンクの世界では、ベースとドラムのグルーヴがある。
ディスコの世界では、「Jazz Carnival」のようなダンス・ミュージックとしての強さがある。
電子音楽では、シンセサイザーやスタジオ技術の使用がある。
そして1990年代以降は、DJやリミックス文化がAzymuthの音を再解釈した。
さらにヒップホップ世代の音楽家にも、そのリズムと音色は発見された。
つまり、Azymuthの音楽には複数の入口がある。
この図で重要なのは、Azymuthがすべてのジャンルを「作った」という意味ではない。
そうではない。
彼らはそれぞれの音楽文化の一部と接続し、その音楽を次の世代が別の文脈で聴いた。
同じ曲が、ブラジリアン・ミュージックとしても、ジャズとしても、ファンクとしても、クラブ・ミュージックとしても機能した。
それがAzymuthの長い寿命を作った。
一つのジャンルだけに所属する音楽は、そのジャンルの歴史の中で語られやすい。Azymuthは複数の歴史に同時に存在したため、何度も別の場所から発見された。
1979年と2025年をつなぐもの
Azymuthの歴史を50年という単位で見ると、1979年と2025年は大きく離れている。
1979年には『Light as a Feather』があり、「Jazz Carnival」が世界へ広がった。
2025年には『Marca Passo』がある。
メンバーは変わった。
音楽産業も変わった。
録音技術も変わった。
レコード市場も変わった。
DJ文化も変わった。
ストリーミングも存在する。
それでも、Azymuthという名前は残った。
では、何が残ったのか。
一つは、グルーヴ。
もう一つは、ブラジルのリズム。
そして、電子音への好奇心。
さらに、ジャンルの境界を固定しない姿勢。
この四つは、時代が変わっても機能する。
1979年ならディスコとジャズの間に入る。
1980年代ならシンセサイザーとフュージョンの中へ入る。
1990年代ならDJ文化へ入る。
2000年代ならリミックスや再発文化へ入る。
2010年代なら新しいメンバーによる再構築へ入る。
2020年代には、新しい世代のプロデューサーやミュージシャンとの共同作業へ入る。
つまり、Azymuthの音楽は時代ごとに別の場所へ移動している。
しかし、そのたびに完全に別の音楽になるわけではない。
中心には同じグルーヴがある。
これが50年間続いた理由の一つだ。
1979年と2025年は音楽産業も録音技術もまったく違う。しかしAzymuthの中心にある「リズムを軸に異なる音を混ぜる」という方法は、半世紀後にも機能している。
Azymuthは「未来の音楽」だったのか
Azymuthについて語るとき、「未来的」という言葉は非常によく似合う。
シンセサイザー。
電子音。
ボコーダー。
ファンク。
複雑なリズム。
浮遊感のあるコード。
これらを組み合わせた音楽は、1970年代末から1980年代にかけて非常に先進的に聞こえた。
しかし、Azymuthを単純に「未来の音楽」と呼ぶだけでは、その本質を見失う。
なぜなら、彼らの音楽には非常に古いものも同時に存在するからだ。
サンバ。
ブラジルのリズム。
生楽器。
ベースとドラムの身体的なグルーヴ。
ジャズの即興性。
つまり、Azymuthは未来だけを向いていたわけではない。
古いものと新しいものを同じ場所に置いていた。
それが重要だった。
電子楽器を使っていても、音楽の身体性は消えない。
ファンクになっても、サンバの感覚が残る。
ジャズになっても、踊れる。
クラブ・ミュージックとして再発見されても、ブラジルの音楽として聴ける。
Azymuthの未来感は、古い音楽を捨てた結果ではない。
むしろ、古いリズムを新しい音で演奏した結果として生まれた。
だから、50年経っても古くなりにくい。
電子音だけなら、その技術が古くなる可能性がある。
流行のリズムだけなら、そのリズムが時代遅れになる可能性がある。
しかし、Azymuthはその二つをリズムと演奏の中に組み込んだ。
だから、音色が古くなってもグルーヴが残る。
録音方式が変わっても、ベースとドラムの関係は残る。
時代が変わっても、三人の会話のような演奏は残る。
Azymuthの未来感は、古いものを捨てた未来ではない。サンバやジャズの身体性を残したまま、そこへ新しい音を重ねた未来だった。
Azymuthを聴くということ
Azymuthの音楽を初めて聴くとき、ジャンルを決めようとすると少し難しくなる。
ジャズなのか。
ファンクなのか。
ブラジリアン・ミュージックなのか。
フュージョンなのか。
電子音楽なのか。
ディスコなのか。
どれも間違いではない。
しかし、どれか一つだけを選ぶ必要もない。
むしろ、Azymuthを聴くときは「この曲は何なのか」よりも、「三人が何を交換しているのか」に注目すると分かりやすい。
ベースが動く。
ドラムが反応する。
キーボードがその隙間へ入る。
次の瞬間、キーボードがリズムを変える。
ベースがそれに反応する。
ドラムがさらに変化する。
曲が少しずつ形を変える。
ここにAzymuthの面白さがある。
彼らの音楽は、巨大なアレンジによって複雑になるのではない。
三人の関係が複雑になることで、音楽が豊かになる。
だから、イヤホンで細かく聴いても面白い。
大きな音でグルーヴを感じてもいい。
DJのようにリズムだけを取り出してもいい。
アルバム全体を通して聴いてもいい。
どこから入っても、別の入口が見つかる。
そして、その入口の多さこそがAzymuthの歴史そのものだ。
1970年代に聴いた人。
1980年代に聴いた人。
1990年代にレコードを掘ったDJ。
2000年代に再発盤を買ったリスナー。
2010年代にリミックスから知った人。
2020年代に新作から入った人。
それぞれが違うAzymuthを聴いている。
それでも、同じ音楽にたどり着く。
Azymuthは「何の音楽なのか」を決めてから聴く必要がない。聴きながら、サンバ、ジャズ、ファンク、電子音楽の境界が少しずつ消えていく。その過程そのものがAzymuthである。
半世紀を越えて残ったもの
Azymuthの歴史を振り返ると、そこには大きな成功だけが並んでいるわけではない。
セッション・ミュージシャンとしての出発。
1968年の共同録音。
Marcos Valleとの仕事。
1975年のデビュー。
1977年の国際的展開。
1979年の『Light as a Feather』。
「Jazz Carnival」のヒット。
1980年代の大量のアルバム制作。
1990年代以降の再発見。
Far Out Recordingsとの長い関係。
リミックス文化との接続。
2012年のBertramiの死。
2016年の『Fênix』。
2019年の『Demos 1973-75』。
2020年の『Azymuth JID004』。
2023年のIvan Contiの死。
そして2025年の『Marca Passo』。
この流れを見ると、Azymuthの歴史は「黄金時代」という一つの期間だけで説明できない。
むしろ、何度も形を変えてきたことそのものが重要だった。
音楽の流行が変わる。
録音技術が変わる。
レコード市場が変わる。
メンバーが変わる。
聴く人も変わる。
それでも、音楽の中心にあるものが残る。
グルーヴ。
ブラジルのリズム。
ジャズの自由さ。
電子音への好奇心。
そして、三人の演奏が互いに反応する感覚。
Azymuthは、半世紀以上にわたって同じ音楽を繰り返したグループではない。
同じ方法を使いながら、何度も違う音楽を作ったグループだった。
それが、Azymuthという名前を長く生き残らせた。
2025年の『Marca Passo』は、その歴史の最後の章ではない。
それは、50年前に始まった方法が、現在のメンバーによってまだ動いていることを示す一つの記録である。
そしてAzymuthの音楽を聴き直すと、1970年代の録音が現在の音楽として聞こえる瞬間がある。
古いのに、古く聞こえない。
未来的なのに、過去を感じる。
踊れるのに、ジャズとしても聴ける。
電子的なのに、非常に身体的である。
その矛盾が、AzymuthをAzymuthにしている。
半世紀を越えて残ったのは、特定の時代のサウンドではない。異なる音楽を一つのグルーヴへ変えてしまう、Azymuth独自の方法だった。