【コラム】 Afrobeat / Afro-Fusion ― 西アフリカ音楽の構造変化とグローバル展開

Column Afro-Fusion Afrobeat
【コラム】 Afrobeat / Afro-Fusion ― 西アフリカ音楽の構造変化とグローバル展開

序論

文:mmr|テーマ:Afrobeatがナイジェリア国内のライブ文化を中心に発展した事実と、Afro-Fusionが国境を越えた制作・流通環境の中で用いられるようになった経緯を、音楽産業史とディアスポラの動きについて

AfrobeatおよびAfro-Fusionは、西アフリカ、とりわけナイジェリアとガーナを起点として形成された音楽文化である。両者はしばしば混同されるが、歴史的背景、音楽構造、社会的役割において異なる位置づけを持つ。本稿では、Afrobeatの成立からAfro-Fusionの展開に至るまでを、確認可能な事実のみをもとに整理し、音楽的特徴、制作技法、社会的文脈、国際的受容の変遷を包括的に記述する。

“本稿は評価や主観的解釈を避け、史料・証言・録音史実に基づく情報のみで構成されている”


西アフリカ音楽の基層

伝統音楽の構造

西アフリカの多くの民族音楽は、ポリリズム、コール・アンド・レスポンス、反復構造を特徴とする。ヨルバ、エウェ、アシャンティなどの音楽文化では、複数の打楽器が異なる周期を同時に演奏する構造が一般的であり、これは後のAfrobeatに直接的な影響を与えた。

旋律は音階よりもリズムとフレーズの循環を重視し、歌唱は集団参加型であることが多い。これらの特徴は20世紀中盤以降、都市化と録音技術の普及により、都市音楽の中に再編成されていった。

植民地期と都市音楽

19世紀末から20世紀にかけての植民地支配は、西アフリカにヨーロッパ由来の楽器と和声概念をもたらした。ブラスバンド、教会音楽、軍楽隊が各地で演奏され、それらは伝統リズムと融合した。ガーナで発展したハイライフは、こうした混交の代表例であり、後のAfrobeat形成における重要な前史となる。


Afrobeatの成立

フェラ・クティの活動

Afrobeatという語は、1960年代後半にナイジェリアの音楽家フェラ・アニクラポ・クティによって用いられた。フェラはロンドンで音楽教育を受け、ジャズ、ハイライフ、ソウルを吸収した後、ナイジェリアに帰国した。1969年のアメリカ滞在中、ブラック・パワー運動やファンクの影響を受け、音楽と政治的言説を結びつける方向性を明確にした。

彼が率いたバンド、アフリカ70および後のエジプト80は、長時間演奏、反復的グルーヴ、ホーンセクションを特徴とし、既存のダンス音楽とは異なる形式を確立した。

音楽的特徴

Afrobeatの典型的編成は、ドラムセット、複数のパーカッション、エレクトリックベース、ギター、ホーンセクション、キーボード、ボーカルから成る。リズムは4/4拍子を基調としながらも、各楽器が独立した反復パターンを演奏するため、全体として複雑なポリリズムを形成する。

楽曲はしばしば10分以上に及び、イントロ、グルーヴの展開、即興ソロ、ボーカルのスピーチ的パートから構成される。歌詞は英語、ピジン英語、ヨルバ語が用いられ、ナイジェリア社会の政治状況や不正、権力構造を批判する内容が多かった。

“歌詞内容の政治性は、当時のナイジェリア政権との緊張関係を生み、複数回の弾圧や逮捕に繋がった”


1970年代の拡大

ナイジェリア国内での受容

1970年代、ナイジェリアは石油収入の増加により都市文化が拡大し、ラゴスは音楽産業の中心地となった。Afrobeatはナイトクラブ、ライブハウス、ラジオを通じて広まり、多くのミュージシャンが同様の編成とスタイルを採用した。

他地域への影響

Afrobeatはガーナ、ベナン、トーゴなど周辺国にも影響を及ぼした。特にベナン出身のアーティストたちは、ハイライフや現地リズムとAfrobeatを組み合わせた独自の表現を行った。これにより、Afrobeatは単一の国の音楽ではなく、地域的スタイルとして認識されるようになった。


1980年代以降の変化

フェラ・クティ晩年と継承

1980年代後半、フェラの国際的評価は高まった一方、ナイジェリア国内での政治状況は不安定であった。1997年のフェラの死後、その音楽は息子フェミ・クティ、シェウン・クティらによって継承された。彼らは基本的なAfrobeat構造を維持しつつ、現代的な録音技術と国際的制作環境を取り入れた。

再評価と国際化

1990年代後半から2000年代にかけて、ヨーロッパや北米でAfrobeatの再評価が進んだ。再発盤、コンピレーション、フェスティバル出演を通じて、Afrobeatはワールドミュージックの一分野として広く紹介された。


Afro-Fusionの登場

用語の背景

Afro-Fusionという語は、2000年代以降、アフリカ系アーティストが多様なジャンルを横断的に用いる動向を指すために使用されるようになった。Afrobeatの直接的継承ではなく、ヒップホップ、R&B、レゲエ、ダンスホール、エレクトロニック音楽などとの融合が特徴である。

ナイジェリアのポピュラー音楽

2000年代以降のナイジェリアでは、デジタル制作環境の普及により、個人スタジオでの楽曲制作が一般化した。Afrobeatsと総称されるポップ音楽潮流が形成され、その中でAfro-Fusionはジャンル横断的表現として位置づけられた。

“Afro-Fusionは特定のリズム型や編成を持たず、制作手法と文化的出自の組み合わせを指す概念として用いられる”


音楽構造の比較

flowchart TD A["伝統リズム"] --> B["ハイライフ"] B --> C["Afrobeat"] C --> D["Afro-Fusion"] E["ジャズ・ファンク"] --> C F["ヒップホップ・R&B"] --> D

社会的・文化的文脈

政治との関係

Afrobeatは成立当初から政治的言説と不可分であった。ライブ演奏は集会的性格を持ち、歌詞は具体的な事件や政策を言及することが多かった。一方、Afro-Fusionは政治的主張を必須要素とせず、個人的経験や国際的アイデンティティを扱う傾向がある。

ディアスポラとグローバル化

アフリカ系ディアスポラの存在は、Afro-Fusionの形成に重要な役割を果たした。ロンドン、ニューヨーク、トロントなどの都市では、アフリカ系移民が現地音楽文化と接触し、新たな融合形態を生み出した。


年表

timeline 1950 : ハイライフの都市的発展 1969 : フェラ・クティの米国滞在 1970 : Afrobeat様式の確立 1980 : 国際ツアーと評価拡大 1997 : フェラ・クティ死去 2000 : デジタル制作環境の普及 2010 : Afro-Fusionの一般化

制作技術の変遷

アナログ録音が主流であった1970年代のAfrobeatは、ライブ一発録りに近い形で制作された。複数人の同時演奏が音楽の推進力を生んだ。対照的にAfro-Fusionは、デジタルDAWを用いた分業的制作が中心であり、国境を越えたデータ交換が可能となった。


結論

AfrobeatとAfro-Fusionは、同じ文化圏を共有しながらも、異なる時代背景と制作環境の中で形成された音楽である。前者は特定の歴史的状況に根差した集団的表現であり、後者はグローバル化以降の個別的かつ流動的表現である。本稿で示した事実関係を通じて、両者の連続性と断絶を確認することができる。

“両者は対立概念ではなく、歴史的時間軸上に配置された異なる段階として理解される”


Monumental Movement Records

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