3 Mustaphas 3とは何だったのか
文:mmr|テーマ:バルカンの架空の一族という設定を使いながら、ヨーロッパ、北アフリカ、中東、アフリカ、アジア、ラテン圏の音楽を横断した彼らの活動をたどる
1982年、ロンドンでひとつの奇妙なバンドが活動を始めた。
名前は3 Mustaphas 3。
一見すると、バルカン半島のどこかからイギリスへやって来た民族音楽グループのように見える。しかし実際には、メンバーの多くはイギリスの音楽シーンで活動していたミュージシャンだった。
彼らは、自分たちをMustapha一族として演じた。
故郷はSzegerely。
そこにはCrazy Loquat Clubという架空のクラブがあり、Mustapha一族はそこで演奏していたという設定が作られた。そしてメンバーたちは、さまざまな国や地域の音楽を演奏しながら、架空の家族史まで作り上げていった。
この設定は単なるジョークではなかった。
3 Mustaphas 3の面白さは、音楽そのものと、この架空の世界が完全に分離していなかったことにある。
彼らはバルカン音楽だけを演奏するバンドではなかった。
中東、北アフリカ、アフリカ、地中海、東欧、アイルランド、ラテンアメリカ、さらには日本語を使った楽曲まで登場する。
つまり、彼らの音楽には「ここからここまでが民族音楽」という境界線がほとんど存在しなかった。
1980年代のイギリスでは、後に「world music」と呼ばれる市場やジャンルが急速に形成されていった。
3 Mustaphas 3は、その流れの中にいた。
しかし、彼らの活動は単純な「西洋人が世界の音楽を紹介する」という構図には収まらない。
彼らは世界中の音楽を、ロンドンのバンドとして演奏した。
そしてその過程で、民族音楽、ポップ、ロック、ダンス、ジャズ、フォーク、ニューウェーブ的な感覚を同じステージに置いた。
3 Mustaphas 3は、世界音楽を「外国の音楽」としてではなく、ロンドンで演奏できる現在の音楽として扱ったバンドだった。
1982年、ロンドンで始まったMustapha一族
3 Mustaphas 3の中心人物として重要なのが、Ben Mandelsonである。
MandelsonはHijaz Mustaphaという名前を使った。
そこにLu Edmonds、Nigel Watson、Salah Dawson Miller、Ray Cooper、Tim Fienburghらが加わり、Mustapha一族という設定が形成されていった。
それぞれに架空の名前が与えられた。
Lu EdmondsはUncle Patrel Mustapha bin Mustapha。
Ben MandelsonはHijaz Mustapha。
Nigel WatsonはHouzam Mustapha。
Tim FienburghはNiaveti III。
Salah Dawson MillerはIsfa’ani Mustapha。
Ray CooperはOussack Mustapha。
ここで重要なのは、3 Mustaphas 3が最初から固定された「三人組」ではなかったことだ。
名前は3 Mustaphas 3なのに、ステージには多数のMustaphaが現れる。
この矛盾そのものが、バンドの構造だった。
「3」という数字は、厳密な人数を意味するものではない。
むしろ、Mustaphaという架空の姓を中心に、メンバーが入れ替わり、増え、別名を持ち、別の楽器を演奏するシステムになっていた。
この不定形な構造によって、3 Mustaphas 3は普通のロックバンドとは違う活動方法を取ることができた。
固定されたメンバーが固定されたジャンルを演奏するのではなく、Mustapha一族という架空の共同体が、世界中の音楽を演奏する。
この設定は、後の音楽を理解するうえでも重要になる。
なぜなら3 Mustaphas 3の音楽には、最初から「誰がどの国の音楽を代表するのか」という発想が薄かったからだ。
彼らは特定の国の代表ではない。
架空のSzegerelyから来たMustapha一族なのである。
彼らの架空の出身地は、世界中の音楽を自分たちの物語へ持ち込むための入口になった。
Szegerelyという架空の故郷
3 Mustaphas 3の物語には、Szegerelyという町が登場する。
アルバムのライナーノーツなどで語られる設定によれば、Mustapha一族はこのバルカン地方の町で活動していた。
彼らが演奏していた場所として登場するのがCrazy Loquat Clubだった。
そして物語では、彼らはさまざまな出来事を経てイギリスへやって来る。
その過程に冷蔵庫が登場する。
メンバーたちは冷蔵庫に入れられてイギリスへ運ばれたという、現実の音楽史ではありえない設定が、バンドの神話として語られた。
普通のバンドなら、こうした設定はプロモーション用の小ネタで終わる。
しかし3 Mustaphas 3の場合、架空の歴史はアルバム、ステージ、メンバー名、衣装、曲紹介などにまで広がっていった。
その結果、彼らの活動を見ると「これは音楽なのか、演劇なのか」という境界が曖昧になる。
ただし、音楽自体は決して冗談だけではなかった。
楽器の扱いは本格的で、バルカン音楽や中東音楽などの特徴を取り込みながら、そこへ別の地域のリズムや楽器を重ねていた。
この二重構造が3 Mustaphas 3の最大の特徴だった。
見た目は奇妙。
名前も奇妙。
物語も奇妙。
しかし演奏は非常に具体的だった。
だからこそ、単なるパロディにはならなかった。
Szegerelyは実在しない場所だったが、そこから生まれる音楽は現実の世界中の音楽に根を持っていた。
「Forward in all directions!」という思想
3 Mustaphas 3を語るとき、彼らのスローガンとして知られるのが「Forward in all directions!」である。
直訳すれば「すべての方向へ前進する」。
この言葉は、彼らの音楽を非常にうまく説明している。
通常、音楽ジャンルは方向を限定する。
バルカン音楽ならバルカン。
アラブ音楽なら中東。
アフリカ音楽ならアフリカ。
ロックならロック。
しかし3 Mustaphas 3は、ひとつの方向へ進まなかった。
複数の方向へ同時に進んだ。
たとえば、バルカンの旋律があり、その上にアラブ音楽的なフレーズが入り、さらに西洋のベースやドラムが加わる。
そこへアコーディオン、ブーズーキ、サズ、フルート、パーカッションなどが重なる。
さらに曲によっては英語以外の言語が使われる。
この方法は、今日では珍しくない。
しかし1980年代には、現在ほど「グローバル」という言葉が音楽市場に定着していなかった。
その時代に3 Mustaphas 3は、国境を越えた音楽をひとつのバンドの内部で実践していた。
しかも彼らは、異なる音楽をただ順番に並べるのではなく、同時に鳴らす。
ここが重要だった。
「Forward in all directions!」はキャッチコピーであると同時に、3 Mustaphas 3の作曲方法そのものだった。
John Peelが見つけたMustaphaたち
3 Mustaphas 3の活動を考えるうえで、BBC Radio 1のJohn Peelとの関係は非常に重要である。
John Peelは1980年代のイギリスのラジオ文化において、ジャンルの境界を越えて新しい音楽を紹介したDJとして知られている。
3 Mustaphas 3も、その番組に登場した。
彼らは1983年からJohn Peelの番組のためにセッション録音を行っている。
複数回のPeel Sessionが残されており、1983年7月2日に録音されたセッションもそのひとつだった。
この時期の3 Mustaphas 3は、まだ後年のアルバムによって広く知られる前だった。
しかしラジオという媒体は、彼らの音楽にとって非常に相性が良かった。
理由は簡単だ。
映像がなくても音だけで異様さが伝わるからである。
普通のラジオ番組なら、曲名を聞いて、音が始まる。
3 Mustaphas 3の場合、最初から楽器の組み合わせが普通ではない。
バルカン的な旋律。
中東的な楽器。
西洋のリズム。
多様なパーカッション。
そして、独特のユーモア。
その音を聴いたリスナーは、ジャンル名だけでは説明できない音楽に出会うことになる。
John Peelの番組で彼らが紹介されたことは、3 Mustaphas 3がイギリスのオルタナティブな音楽文化の中に入っていく重要なきっかけになった。
John Peelのラジオは、3 Mustaphas 3の「世界中の音楽をひとつのバンドで演奏する」という方法を、ジャンル名より先にリスナーへ届けた。
1985年、Bam!という別名義
1985年には、3 Mustaphas 3の活動に関連して「Orchestra BAM de Grand Mustapha International and (Jolly) Party」という名前が登場する。
この時期の彼らは、ひとつの固定されたバンド名だけに依存していなかった。
Mustaphaという世界観そのものがプロジェクトの中心だった。
同じミュージシャンが別の名前を持ち、別の物語をまとい、別の地域の音楽を演奏する。
この方法は、後の電子音楽やDJ文化に近い感覚も持っている。
つまり、アーティスト名そのものを固定された人格として扱わない。
プロジェクトごとに名前や役割を変える。
3 Mustaphas 3の場合、それを1980年代のワールドミュージックという文脈で行った。
1985年にはBam! Mustaphas Play Stereoも登場する。
さらにOrchestra BAM名義の作品も発表された。
こうした初期作品によって、3 Mustaphas 3は単なるライブバンドから、録音作品を残すグループへ移っていく。
ただし、彼らの本当の特徴は、録音そのものだけではなかった。
ステージに立ったときの視覚的な要素も大きかった。
フェズなどの衣装。
架空の人物設定。
奇妙な名前。
そして世界各地の楽器。
彼らは「ワールドミュージック」という言葉が持つ堅苦しさを、ステージ上のユーモアによって崩していった。
Bam!時代の3 Mustaphas 3は、音楽だけでなく、バンドという存在そのものをひとつのフィクションに変えていった。
1986年「From the Balkans to Your Heart」
1986年には「From the Balkans to Your Heart: The Radio Years」が発表された。
タイトルが示すように、これは初期のラジオ・セッションをまとめた作品だった。
ここには、彼らが初期にどのような音楽を演奏していたのかを知る手がかりがある。
バルカン音楽を中心にしながら、ギリシャ、トルコ、地中海などにつながる旋律やリズムが入り込む。
それらは「伝統音楽を忠実に再現する」という方向ではない。
3 Mustaphas 3は、複数の地域の音楽を自分たちの演奏へ取り込む。
そのため、ひとつの曲を聴いても、音楽的な出身地を一つに決めることが難しい。
これは後の作品にも一貫している。
3 Mustaphas 3は「世界の音楽を紹介するバンド」というより、「世界の音楽が混ざった状態そのものを演奏するバンド」だった。
この違いは大きい。
前者なら、Aという音楽、Bという音楽、Cという音楽を順番に紹介する。
後者では、A、B、Cが同じ曲の中で衝突する。
3 Mustaphas 3は後者だった。
初期録音からすでに、彼らの目的は一つの国の音楽を再現することではなく、異なる音楽が出会う場所を作ることにあった。
1987年「Shopping」――最初の大きな到達点
1987年、3 Mustaphas 3は「Shopping」を発表する。
このアルバムは、彼らの音楽を理解するうえで最も重要な作品のひとつである。
収録曲には「Ljubav Kraj Izvora / Zvezdanovo (Skupovo) Kolo」、「Xamenh Evtexia / Fiz’n」、「Shika Shika」、「Musafir」、「A Night Off Beirut」、「Selver」、「Shouffi Rhirou」、「Valle E Pogradecit」などが並ぶ。
タイトルだけを見ても、ひとつの地域に限定された作品ではないことが分かる。
音楽的にも、バルカン、中東、北アフリカなどにつながる要素が組み込まれている。
そして重要なのが、電化楽器と伝統的な楽器の共存である。
ベース、ドラム、ギターなどの西洋的なバンド楽器と、サズ、ブーズーキ、カバル、アコーディオン、各種パーカッションなどが同じ音楽空間に置かれる。
この組み合わせは、現在では「ワールドフュージョン」と呼べるかもしれない。
しかし1987年の時点では、もっと自由だった。
彼らは「フュージョンを作ろう」と考えてジャンルを設計しているようには聞こえない。
面白い音があれば入れる。
面白いリズムがあれば使う。
面白い言葉があれば歌う。
そして、それらをMustapha一族の物語の中へ組み込む。
「Shopping」というタイトルも、彼らの世界観に似ている。
世界中の音楽を店から拾い集めるような感覚がある。
「Shopping」は、3 Mustaphas 3が世界の音楽をひとつの音楽市場のように眺め、そこから自由に持ち帰る姿勢を象徴する作品だった。
「Shopping」の音楽はなぜ面白いのか
「Shopping」の特徴は、単純な異文化ミックスではない。
最大のポイントは、異なる音楽の「距離」が近いことだ。
たとえばバルカン的な旋律がある。
その横に中東的な旋律がある。
さらに西洋のベースが入る。
そしてパーカッションが全体を動かす。
ここで重要なのは、これらが別々の曲として収録されているわけではないことだ。
同じ曲の中で、異なる音楽的語彙が並ぶ。
その結果、聴いている側は常に「次に何が来るのか」を予測しにくい。
しかし、リズムがあるため、完全には散らからない。
3 Mustaphas 3の音楽が聴きやすい理由はここにある。
複雑なのに、身体的には分かりやすい。
多くの文化的要素を使っているのに、ダンスできる。
情報量が多いのに、音楽としてまとまっている。
これは、単なる「珍しい楽器のコレクション」ではない。
バンドとしてのアンサンブルが中心にあるからだ。
特にベースとパーカッションは重要だった。
電気ベースが音楽を現代的なグルーヴへ引き寄せ、ドラムやパーカッションが異なる地域のリズム感をつなぐ。
そこへ弦楽器や管楽器が旋律を加える。
つまり3 Mustaphas 3は、「民族楽器をロックに乗せる」という単純な方法ではなく、複数の音楽システムをバンドの内部で組み直していた。
3 Mustaphas 3の音楽は、珍しい楽器の集合ではなく、異なるリズムと旋律を一つのグルーヴへ変換するアンサンブルだった。
メンバーが増えることで音楽も広がった
1987年前後、バンドにはColin BassがSabah Habas Mustaphaとして加わった。
Colin Bassはベースを担当し、3 Mustaphas 3のサウンドに大きな役割を果たした。
Bassは後にソロ名義でも活動するが、3 Mustaphas 3ではMustapha一族の一員として存在した。
また、Kim BurtonはKemo Mustaphaとして参加した。
Kemoはキーボード、ピアノ、オルガン、アコーディオンなどを担当した。
さらにLavra Tima Daviz Mustaphaも参加し、複数の言語で歌った。
この時期のメンバー構成を見ると、3 Mustaphas 3が「三人の固定メンバーによるバンド」という理解では説明できないことが分かる。
楽器も非常に多い。
ギター。
ベース。
ブーズーキ。
サズ。
バイオリン。
フルート。
カバル。
アコーディオン。
パーカッション。
ドラム。
キーボード。
そして地域ごとに異なる伝統楽器。
こうした楽器群を、ひとつのバンドの中で使い分ける。
この編成が、彼らの「世界中を行き来する」音楽を可能にした。
Mustapha一族の人数と楽器が増えるほど、彼らの音楽も一つの地域からさらに遠くへ移動していった。
1988年、「Trouble Fezz meets 3 Mustaphas 3」
1988年には「Trouble Fezz meets 3 Mustaphas 3」が登場する。
ここでも3 Mustaphas 3は、ひとつの音楽形式に閉じなかった。
彼らはリミックスや別バージョン、シングルなどのフォーマットとも関わっていく。
この点は、後の「Friends, Fiends & Fronds」へつながっていく重要な要素である。
1980年代後半の音楽では、12インチ・シングルやリミックスがクラブ文化と結びつき始めていた。
3 Mustaphas 3も、その環境と無関係ではなかった。
彼らの音楽はもともとリズムが強く、ダンスとの相性がよい。
バルカンの反復リズム。
アフリカ的なパーカッション。
中東のリズム。
電気ベース。
ドラム。
これらは、クラブで再構成することができる。
つまり3 Mustaphas 3は、伝統音楽とポップ音楽の境界だけでなく、ライブ音楽とDJ文化の境界にも接近していた。
3 Mustaphas 3の音楽は、民族音楽を保存するだけでなく、クラブで再び動かせる音楽としても機能した。
1989年「Heart of Uncle」
1989年、2枚目のフルアルバム「Heart of Uncle」が発表された。
タイトルからして、Mustapha一族の物語がそのままアルバムへ組み込まれている。
収録曲には「Awara Hoon」、「Trois Fois Trois」、「Sitna Lisa」、「Mama O」、「Ovcepolsko Oro」、「Kem Kem」、「Yeni Yol」、「Taxi Driver (I Don’t Care)」、「Benga Taxi」、「Aj Zajdi Zajdi Jasno Sonce」、「Anapse to Tsigaro」などがある。
「Heart of Uncle」は、3 Mustaphas 3がさらに多様な地域へ広がった時期の作品である。
バルカンを中心としながら、中東、地中海、アフリカ、ラテン的な要素などが混ざる。
特に重要なのは、バンドの音楽が「バルカン風」という一言では説明できなくなっていたことだ。
初期の彼らは、バルカン音楽の奇妙なイギリスのバンドとして受け止めることもできた。
しかしこの頃になると、世界各地の音楽を取り込んだ独自のスタイルが確立していた。
しかも、それぞれの曲が同じ方向を向いているわけではない。
曲ごとに異なる文化圏へ移動する。
それでも、演奏者が同じMustapha一族なので、アルバム全体には一貫性がある。
この構造は、後のコンピューター音楽やサンプリング文化とも相性がいい。
一つの作品に多くの文化的素材が存在し、それを編集してひとつの世界を作る。
3 Mustaphas 3は、それを生演奏のバンドとして実践していた。
「Heart of Uncle」は、3 Mustaphas 3がバルカン音楽を出発点にしながら、そこからさらに広い世界へ進んだことを示すアルバムだった。
1990年「Soup of the Century」
1990年、3 Mustaphas 3は「Soup of the Century」を発表した。
これは彼らの最後のスタジオ・アルバムとなった。
そして、3 Mustaphas 3を代表する作品として特に評価されるアルバムでもある。
タイトルの「Soup」は、彼らの音楽そのものを思わせる。
一つの料理に多くの材料を入れるように、彼らはさまざまな音楽を一つの作品へ入れた。
収録曲には「Buke E Kripe Ne / Vater Tone / Kalaxhojne」、「Zohar No. 2」、「Soba Song」、「Golden Clarinet」、「Ti Citron」、「Sadilo Mome / Tropnalo Oro」、「This City Is Very Exciting!」、「Yogurt Koydum Dolaba / Televizyon」、「Lipovacko Kolo」、「Madre」、「Ya Habibi, Ya Ghaybine」、「Mamo, Snezhets Navalyalo」などがある。
このアルバムでは、音楽的な地理がさらに広がっている。
バルカン。
中東。
アイルランド。
スコットランド。
ギリシャ。
アルバニア。
クレズマー。
ラテン音楽。
カントリー。
そして日本語。
ひとつのアルバムの中に、これほど多くの音楽文化が共存する。
しかし、3 Mustaphas 3はそれを「世界音楽メドレー」にしなかった。
それぞれの曲は独立した音楽として成立している。
そこが彼らの強さだった。
「Soup of the Century」は、3 Mustaphas 3の世界音楽的な方法論が最も広がった地点だった。
「Soba Song」という奇妙な到達点
「Soup of the Century」を象徴する曲のひとつが「Soba Song」である。
この曲は、日本のそばを題材にしている。
しかも、日本文化を単に引用するだけではない。
日本語と英語を使い、そばという非常に具体的な対象を音楽のテーマにしている。
ここには3 Mustaphas 3の特徴が凝縮されている。
世界の文化を「遠いもの」として扱わない。
日本のそばも、バルカンの踊りも、アフリカのリズムも、彼らにとっては同じ音楽世界の中に置くことができる。
これは「全部同じ」という意味ではない。
むしろ、違うものを違うまま並べる。
そのうえで、ひとつのバンドとして演奏する。
この方法が「Soup of the Century」というアルバムタイトルにも表れている。
スープは、材料を一つずつ食べる料理ではない。
複数の材料が同じ鍋の中に入る。
3 Mustaphas 3の音楽も同じだった。
「Soba Song」は、世界音楽を地理ではなく日常生活のレベルまで引き寄せた3 Mustaphas 3らしい一曲だった。
伝統音楽を「博物館」に入れなかった
3 Mustaphas 3を理解するうえで、もうひとつ重要なのが「保存」と「再構築」の違いである。
伝統音楽を扱う場合、演奏者は原型を守ろうとすることがある。
それ自体は重要な仕事だ。
しかし3 Mustaphas 3は、保存を目的としたバンドではなかった。
彼らは古い音楽を現在の楽器で演奏し、さらに別の地域の音楽を加えた。
ベースが入る。
ドラムが入る。
エレクトリック・ギターが入る。
キーボードが入る。
そして時には、ラップやポップスに近い感覚まで入り込む。
その結果、伝統音楽は博物館の展示物ではなくなる。
現在の音楽として動き始める。
3 Mustaphas 3の音楽が面白いのは、古いものと新しいものを対立させないことだ。
伝統楽器と電化楽器。
バルカン音楽とロック。
中東音楽とダンス。
フォークとクラブ。
これらを「どちらか」に決めない。
同時に置く。
3 Mustaphas 3は、伝統音楽を過去のものとして保存するのではなく、現在のバンドサウンドの中で再び動かした。
「world music」という言葉との関係
3 Mustaphas 3の活動時期は、「world music」という言葉が音楽産業の中で広がっていった時期と重なる。
1980年代後半から1990年代初頭にかけて、世界各地の伝統音楽と西洋のポップ音楽を結びつける動きが大きくなった。
Talking Heads、Paul Simon、Peter Gabrielなど、異なる文化圏の音楽を西洋のポップ・ミュージックへ取り込むアーティストも注目された。
3 Mustaphas 3も、その時代の中で活動した。
しかし彼らの立ち位置は少し違う。
彼らは「世界の音楽を西洋へ紹介する」というより、「西洋のバンドが世界の音楽を演奏する」という形を取った。
さらに、そのバンド自体を架空のバルカン一族にしてしまった。
このため、音楽そのものとフィクションが複雑に絡み合った。
彼らは世界音楽というジャンルの中にいた。
しかし同時に、ジャンルそのものを少し笑っているようにも見える。
フェズをかぶり、架空の名前を使い、架空の故郷を語る。
それでも音楽は本気で演奏する。
このバランスが、彼らを普通のワールドミュージック・グループとは違う存在にした。
3 Mustaphas 3は「world music」という新しい市場の中に入りながら、そのジャンル名だけでは説明できない音楽を作った。
「民族音楽を演奏するイギリス人」という問題
3 Mustaphas 3について考えるとき、避けられない問題もある。
イギリスのミュージシャンが、バルカンや中東、アフリカなどの音楽を演奏することについてである。
これは現在でも続く重要な問題だ。
誰が誰の音楽を演奏するのか。
どこまでが敬意で、どこからが消費なのか。
3 Mustaphas 3は、この問題を完全に解決したわけではない。
しかし、彼らの方法には特徴があった。
彼らは自分たちを本物のバルカン人だと偽装して、現実の民族的アイデンティティを主張したわけではない。
Mustapha一族という架空の設定を作った。
つまり、最初からフィクションであることを前面に出した。
そのため、彼らの活動には「本物の民族代表」という主張がなかった。
これは彼らの音楽を考える上で重要である。
彼らは「私たちはバルカン音楽そのものだ」と言っているのではない。
「私たちはMustapha一族で、世界中の音楽を演奏する」と言っている。
この距離感が、彼らのユーモアを成立させた。
3 Mustaphas 3は、特定の民族を代表するバンドではなく、異なる音楽文化が出会う架空の共同体として活動した。
楽器の多さは、そのまま思想だった
3 Mustaphas 3のメンバー欄を見ると、異常なほど多くの楽器が並ぶ。
Ben Mandelsonはギター、ブーズーキ、バイオリン、バンジョー、ウクレレ、タンブーラ、サズなどを扱った。
Tim Fienburghはフルート、バスフルート、ピッコロ、ネイ、カバル、バグパイプ、ズルナ、アコーディオンなどを担当した。
Salah Dawson Millerは、ガンザ、シェケレ、タンバリン、ダルブッカ、ジャンベ、コンガ、トーキングドラムなど、多数のパーカッションを扱った。
Nigel Watsonもドラムやベル、ベンディール、コンガなどを演奏した。
Kemo Mustaphaはピアノ、アコーディオン、オルガン、シンセサイザーなどを担当した。
Colin Bassはエレクトリック・ベースを担当した。
ここで重要なのは、楽器の種類が多いことだけではない。
それぞれの楽器が別々の音楽文化を連れてくることだ。
バグパイプが入ればヨーロッパ北部やバルカンへつながる。
ネイなら中東を想起させる。
ブーズーキならギリシャや地中海の音楽へ近づく。
ダルブッカなら中東や北アフリカのリズムへつながる。
ジャンベやコンガならアフリカやラテン音楽との接点が生まれる。
そしてベースとドラムが全体をひとつのバンドへまとめる。
3 Mustaphas 3にとって楽器は音色ではなく、世界中の音楽文化へつながる入口だった。
3 Mustaphas 3の音楽を構造で見る
3 Mustaphas 3の音楽を単純化すると、いくつかの層に分けることができる。
第一層は旋律。
バルカン、中東、地中海などの旋律が中心になる。
第二層はリズム。
複数の地域のダンス音楽から影響を受けたリズムが組み込まれる。
第三層は西洋のバンド楽器。
ベース、ドラム、ギター、キーボードなどが加わる。
第四層が言語。
英語だけではなく、さまざまな言語が曲の中に登場する。
第五層がユーモアと物語。
Mustapha一族という架空の世界が、曲やアルバムの背景を作る。
この五つの層が重なることで、3 Mustaphas 3独特の音楽が生まれる。
この構造を見ると、彼らが単なる「民族音楽バンド」ではなかったことが分かる。
音楽だけではなく、物語、言語、楽器、衣装、ステージが一体になっていた。
3 Mustaphas 3の本当のジャンルは、ひとつの音楽形式ではなく、複数の文化を同時に動かす仕組みそのものだった。
1990年代初頭、活動の終わりへ
「Soup of the Century」は1990年に発表され、その後、3 Mustaphas 3はアルバムを支えるツアーを行った。
この時期、彼らの音楽はイギリスだけでなく、海外でも注目されていた。
1991年にはアメリカでの公演も行われている。
当時のアメリカの新聞でも、彼らは世界各地の音楽を演奏するイギリスのグループとして紹介された。
「worldbeat」という言葉が使われる時代の中で、3 Mustaphas 3は非常に分かりやすい存在だった。
一つの曲に複数の文化が入り、ステージにはフェズ姿のMustaphaたちが現れる。
しかし、彼らの活動は長く続かなかった。
1990年代初頭にはグループとしての活動が終わっていく。
資料によって活動終了の表現には差があるが、1991年頃までにバンドとしての活動は終息したとされている。
公式に劇的な解散宣言をしたというより、活動が止まり、それぞれのメンバーが別の仕事へ進んでいったという形に近い。
3 Mustaphas 3は、最も国際的な音楽を作っていた時期に、その活動を終えることになった。
1991年「Friends, Fiends & Fronds」
1991年には「Friends, Fiends & Fronds」が発表された。
これは新しいスタジオ・アルバムというより、シングル、リミックス、別録音、ライブ音源などをまとめた作品として位置づけられる。
収録内容には「Fiz’n」のDJ Trouble Fezzによるリミックスや、「Linda, Linda」の別バージョンなどが含まれる。
また、ベルリンでのライブ録音「Niska Banja」にはLavra Tima Davizと18人編成のセルビアのブラスバンドが参加している。
さらに未発表録音も含まれている。
この作品は、3 Mustaphas 3というバンドの活動範囲を象徴している。
スタジオだけではない。
ライブ。
リミックス。
別バージョン。
ゲスト。
大編成のブラスバンド。
これらが同じ作品に入る。
つまり3 Mustaphas 3は、ひとつの完成形に到達して終わったのではない。
むしろ、世界各地の音楽家や現場と接続しながら拡張していくバンドだった。
「Friends, Fiends & Fronds」は、3 Mustaphas 3が一つの固定された音楽形式ではなく、接続と変化によって成立していたことを示している。
Billboard World Albumsでの評価
「Soup of the Century」は、BillboardのWorld Albumsチャートで1位を記録したとされている。
これは3 Mustaphas 3の活動を考える上で重要な事実である。
なぜなら、彼らの音楽は決して単なるアンダーグラウンドの珍盤ではなかったからだ。
世界音楽市場の中で、実際に広いリスナーへ届いていた。
彼らは商業的なポップスターではなかった。
しかし、ワールドミュージックという市場が拡大していく時期に、その中心の一角へ入ることができた。
ここには1980年代後半から1990年代初頭の音楽産業の変化も関係している。
世界各地の音楽を聴くことが、特別な研究ではなくなっていった。
レコード店にはWorld Musicという棚が作られる。
ラジオでは世界各地の音楽が紹介される。
欧米のミュージシャンも異文化の音楽を取り入れる。
3 Mustaphas 3は、その変化の中で非常に特殊なポジションを取った。
彼ら自身が「世界中の音楽が混ざった存在」だったからだ。
「Soup of the Century」の成功は、3 Mustaphas 3の奇妙な方法論が、単なる実験ではなく当時の世界音楽市場でも成立したことを示した。
彼らは「ワールドミュージックのパロディ」だったのか
3 Mustaphas 3を見ていると、どうしてもユーモアに目が行く。
奇妙な名前。
架空の故郷。
冷蔵庫。
Mustapha一族。
フェズ。
変わった衣装。
曲名。
こうした要素だけを見ると、ワールドミュージックのパロディのように感じる。
しかし、音楽を聴くと話は変わる。
演奏は真剣だ。
楽器も本格的だ。
リズムも複雑だ。
異なる地域の音楽について、かなり深い知識がなければ作れないような組み合わせが登場する。
だから、彼らのユーモアは音楽を否定するものではない。
むしろ音楽を聴きやすくする入口になっている。
「これは難しい民族音楽です」と説明するのではなく、「Mustapha一族の変な音楽です」と見せる。
その結果、リスナーは構えずに聴くことができる。
そして気がつくと、バルカンのリズムや中東の旋律、アフリカのパーカッションを聴いている。
3 Mustaphas 3のユーモアは世界音楽を笑うためではなく、世界音楽を身近なものとして聴かせるために機能していた。
「本物らしさ」から自由になったバンド
3 Mustaphas 3のもうひとつの重要な特徴は、「本物らしさ」に対する距離である。
たとえば、ある国の伝統音楽を演奏する場合、演奏者は「本場の音」を再現することを求められることがある。
しかし3 Mustaphas 3は、最初から自分たちの出身地を架空のSzegerelyに設定している。
この時点で、「本場の代表」という立場から外れている。
彼らはバルカン音楽を演奏する。
しかし同時に、アラブ音楽も演奏する。
アフリカ音楽も演奏する。
ラテン音楽も演奏する。
アジアの要素も入れる。
つまり、どこか一つの文化の正統性を代表する必要がない。
この自由さが、彼らの音楽を広げた。
もちろん、文化的な文脈を無視すれば何でも許されるという話ではない。
むしろ3 Mustaphas 3の面白さは、異なる文化を混ぜること自体を自分たちのテーマにしていた点にある。
彼らは「純粋な音楽」を作ろうとしなかった。
最初から混ざっている音楽を作った。
3 Mustaphas 3は、音楽の価値を「どれだけ純粋か」ではなく「どれだけ面白く組み合わせられるか」という方向へ動かした。
Ben Mandelsonという中心人物
3 Mustaphas 3を語るとき、Ben Mandelsonの存在は特に重要である。
Hijaz Mustaphaとして活動したMandelsonは、ギターやブーズーキ、バイオリン、バンジョーなど多数の弦楽器を演奏した。
また、プロデューサーとしても多くの世界音楽作品に関わっている。
彼の活動は3 Mustaphas 3だけでは終わらない。
世界各地の音楽をイギリスのリスナーへ紹介する仕事にも関わっていった。
つまり、3 Mustaphas 3はMandelsonの音楽的関心の一つの実験場でもあった。
ただし、3 Mustaphas 3の面白さはMandelson一人では説明できない。
Colin Bassのベース。
Tim Fienburghの多彩な管楽器。
Nigel Watsonのドラム。
Salah Dawson Millerのパーカッション。
Lu Edmondsの存在。
そして多くのゲスト。
この集合体がMustapha一族だった。
Ben Mandelsonは3 Mustaphas 3の重要な中心人物だったが、バンドの魅力は一人のスターではなく、多数の音楽家が作る共同体にあった。
Colin Bassというもう一つの軸
Sabah Habas Mustaphaを名乗ったColin Bassも、3 Mustaphas 3の音楽に大きな役割を果たした。
Bassの役割は特に重要だった。
世界各地の旋律やリズムを、電気ベースで現代的なグルーヴへつなぐことができるからだ。
民族音楽では、低音楽器の役割が西洋ポップとは異なる場合がある。
3 Mustaphas 3では、そこへエレクトリック・ベースが入る。
その結果、バルカンや中東の旋律が、現代的なバンドのグルーヴとして成立する。
これは彼らの音楽をダンス可能にする重要な要素だった。
Bassはその後、Sabah Habas Mustapha名義でも活動し、インドネシアの音楽などとの関係を深めていった。
ここにも3 Mustaphas 3の世界観がつながっている。
Colin Bassのベースは、伝統的な旋律と現代的なバンド・グルーヴを接続する橋のような役割を果たした。
3 Mustaphas 3と1980年代ロンドン
3 Mustaphas 3が生まれたロンドンは、音楽的に非常に多様な都市だった。
パンク。
ニューウェーブ。
ポストパンク。
レゲエ。
アフリカ音楽。
カリブ音楽。
中東やアジアのコミュニティ。
そしてさまざまな移民文化。
こうした音楽が同じ都市空間に存在していた。
3 Mustaphas 3は、その環境から生まれた。
だから彼らの音楽を「イギリス人が外国の音楽を真似した」とだけ考えると、重要な部分を見落とす。
ロンドン自体が、すでに世界中の音楽が交差する場所だった。
3 Mustaphas 3は、その都市の現実をバンドの形にした。
彼らにとって世界は遠い場所ではなかった。
レコード店にもある。
ラジオにもある。
クラブにもある。
街にもある。
そして自分たちの楽器の中にもある。
3 Mustaphas 3は、世界音楽を海外から輸入したというより、1980年代ロンドンにすでに存在していた多文化的な音楽環境をバンドとして可視化した。
なぜ今聴いても古く感じにくいのか
3 Mustaphas 3の録音は1980年代から1990年代初頭のものだ。
当然、録音技術や音色には時代性がある。
しかし、音楽の発想そのものは現在でも新鮮に聞こえる。
理由は、彼らがジャンルの境界よりも「組み合わせ」を重視していたからだ。
現在の音楽では、サンプリング、リミックス、グローバル・ポップ、電子音楽などによって、世界各地の音楽が非常に簡単に混ざる。
しかし3 Mustaphas 3は、それをデジタル技術以前の生演奏で行った。
だから音が有機的だ。
リズムが完全に同期していない瞬間がある。
楽器同士がぶつかる。
旋律が少しずれる。
それでも全体として動く。
この「人間が複数の文化を同時に演奏している」という感覚は、現在のデジタルなグローバル音楽とは違う魅力を持つ。
3 Mustaphas 3が古びにくいのは、彼らが特定の時代の音色ではなく、異なる音楽を組み合わせる方法そのものを残したからだ。
3 Mustaphas 3が現在のグローバル音楽へ残したもの
現在では、世界中の音楽を混ぜることは珍しくない。
アフリカのリズムに電子音楽を重ねる。
中東の旋律をテクノに入れる。
インドの音階をヒップホップに使う。
日本の音楽とアメリカのポップを組み合わせる。
こうした作品は無数に存在する。
しかし3 Mustaphas 3が面白いのは、こうした方法がまだ一般化していなかった時代に、それをバンドの基本構造としていたことだ。
彼らは「世界的なサウンド」を作ろうとしたのではない。
世界中の異なる音楽をそのまま持ち込み、ぶつけ、演奏した。
そしてその結果として、世界的なサウンドが生まれた。
この違いは重要だ。
最初から「グローバル・サウンド」という商品を作るのではなく、複数の音楽文化を材料として扱う。
3 Mustaphas 3はその実践例だった。
彼らが先駆的だったのは、世界音楽という完成されたジャンルを演奏したことではなく、ジャンルそのものが混ざっていく過程を音楽にしたことだった。
3 Mustaphas 3の主要作品
3 Mustaphas 3の作品を年代順に見ると、その活動の変化が分かる。
| 年 | 作品 | 位置づけ |
|---|---|---|
| 1985 | Bam! Mustaphas Play Stereo | 初期Mustapha世界の音源 |
| 1985 | Orchestra BAM de Grand Mustapha International and (Jolly) Party | 関連プロジェクト |
| 1986 | From the Balkans to Your Heart: The Radio Years | 初期ラジオ・セッション |
| 1987 | Shopping | 最初のフル・アルバム |
| 1988 | Trouble Fezz meets 3 Mustaphas 3 | リミックス/関連作品 |
| 1989 | Heart of Uncle | 2作目のフル・アルバム |
| 1990 | Soup of the Century | 最終スタジオ・アルバム |
| 1991 | Friends, Fiends & Fronds | リミックス、ライブ、関連音源 |
| 1997 | Bam: Big Mustaphas Play Stereolocalmusic | 初期作品のCD化 |
| 2001 | Play Musty for Me | 後年の関連リリース |
このディスコグラフィーを見ると、3 Mustaphas 3は短い活動期間の中で非常に多くの形態の作品を残したことが分かる。
特に1987年から1991年にかけてが中心的な時期だった。
3 Mustaphas 3の活動期間は長くなかったが、その短い期間に彼らはアルバム、セッション、リミックス、ライブ音源など多様な形で自分たちの音楽を残した。
3 Mustaphas 3年表
3 Mustaphas 3の歴史を一本の線で見ると、1982年のロンドンでの活動開始から、1980年代半ばのラジオとレコード、1987年以降のアルバム、1990年の「Soup of the Century」、そして1990年代初頭の活動終息へと進んでいく。
彼らの歴史は短いが、その中には1980年代のイギリスで世界の音楽がどのように再発見されていったのかが凝縮されている。
3 Mustaphas 3と「グローバル化する音楽」
3 Mustaphas 3が登場した時代は、音楽のグローバル化が進んでいた。
レコードの流通が広がる。
ラジオが世界各地の音楽を紹介する。
海外ツアーが増える。
レコード店のジャンル分類が変化する。
そして音楽家自身が異なる文化の音楽を聴く機会も増えていった。
3 Mustaphas 3は、この変化を非常に早い段階で体現した。
しかし、彼らが面白いのは、グローバル化を「均質化」として表現しなかったことだ。
世界中の音楽が混ざると、全部同じ音になるわけではない。
むしろ、違いが強調される。
バルカンの旋律。
中東の音階。
アフリカのパーカッション。
西洋のベース。
アコーディオン。
ブラス。
異なる言語。
それぞれの違いが残ったまま、ひとつの曲になる。
この方法は、現在のグローバル・ポップにもつながる考え方だ。
3 Mustaphas 3が示したのは、世界の音楽が混ざることは個性を消すことではなく、違いを同時に鳴らすことでもあるという事実だった。
彼らは「ジャンル」を必要としなかった
3 Mustaphas 3を「world music」と呼ぶことは間違いではない。
しかし、それだけでは足りない。
Worldbeat。
Folk。
Balkan。
Middle Eastern。
International Fusion。
Global Jazz。
さまざまなタグを付けることはできる。
しかし、どれか一つを選んだ瞬間に、彼らの音楽の一部が消えてしまう。
これは彼らの意図とも一致している。
「Forward in all directions!」
一つの方向に進まない。
だから、ひとつのジャンルにも完全には入らない。
3 Mustaphas 3は、ジャンルを拒否するために実験したのではない。
ジャンルより先に音楽を考えていた。
「このリズムとこの旋律を一緒にしたらどうなるか」。
「この楽器とこのベースを組み合わせたらどうなるか」。
「この言語でこの曲を歌ったらどう聞こえるか」。
そうした発想が先にあり、ジャンル名は後からついてきた。
3 Mustaphas 3の音楽を理解する最も簡単な方法は、ジャンルを探すことではなく、何と何が一緒に鳴っているかを聴くことだ。
「3人」ではなかったMustaphaたち
バンド名だけを見れば、3 Mustaphas 3は三人のMustaphaによるグループのように見える。
しかし実際には、多数のミュージシャンがMustaphaという名前を共有した。
ここにも彼らの思想がある。
通常のバンドでは、メンバー個人の名前が重要になる。
誰がギターを弾く。
誰が歌う。
誰がリーダーなのか。
3 Mustaphas 3では、それよりMustapha一族が前面に出る。
個人が架空の人物へ変わる。
そして架空の家族に新しいメンバーが加わる。
この構造によって、バンドは「スターの集合」ではなく「共同体」になる。
これは彼らの音楽と完全に一致している。
一つの文化が中心になるのではない。
多くの文化が同じ場所に存在する。
一人のスターではなく、多くのMustaphaがいる。
3 Mustaphas 3という名前は、三人を意味するよりも、無数の音楽的アイデンティティが一つの架空の家族に集まる仕組みを表していた。
彼らの音楽は「混ぜる」だけではなかった
世界音楽について語るとき、「融合」という言葉がよく使われる。
しかし3 Mustaphas 3の場合、単純な融合だけでは説明しにくい。
融合すると、異なる要素が溶け合って一つになる。
3 Mustaphas 3の場合は、違いが残る。
バルカンの旋律はバルカンらしさを残す。
中東の楽器は中東らしい音色を残す。
アフリカのパーカッションも独特のリズムを残す。
そのうえでベースやドラムが全体をつなぐ。
つまり、彼らの音楽は「溶かす」というより「並べる」ことに近い。
しかも、ただ並べるだけではなく、同時に鳴らす。
だから聴いていると、異なる文化が一つの場所に集まっているように感じる。
3 Mustaphas 3の音楽は、異なる文化を消して一つにするのではなく、違いを残したまま同じグルーヴに乗せる音楽だった。
3 Mustaphas 3が残した最大の教訓
3 Mustaphas 3の活動から最も大きな教訓を一つ選ぶなら、それは「世界の音楽を一つのジャンルにしなくてもいい」ということだろう。
世界音楽という言葉は便利だった。
しかし、便利な言葉は同時に音楽を分類する。
アフリカ。
アジア。
中東。
バルカン。
ラテン。
ヨーロッパ。
3 Mustaphas 3は、その分類を軽々と飛び越えた。
彼らにとって重要だったのは、音楽がどこの国のものかだけではなかった。
どんなリズムを持っているのか。
どんな旋律なのか。
どんな楽器が鳴っているのか。
それを別の音楽と組み合わせたら何が起きるのか。
この考え方は、現在の音楽制作にもそのまま通じる。
サンプリング。
リミックス。
グローバル・ポップ。
電子音楽。
クラブ音楽。
映画音楽。
ゲーム音楽。
現代の音楽は、すでに国境を越えている。
その意味で、3 Mustaphas 3はかなり早い時期に未来の問題を扱っていた。
彼らが残した最大の功績は、世界中の音楽を一つの正解へまとめたことではなく、違うまま一緒に鳴らせることを示したことだった。
3 Mustaphas 3を今聴く理由
3 Mustaphas 3は、1980年代から1990年代初頭に活動したバンドだ。
しかし、その音楽は現在でも重要な問いを投げかける。
音楽に国境は必要なのか。
ジャンルは必要なのか。
伝統音楽は保存されるべきなのか、それとも変化してよいのか。
異なる文化の音楽を一緒に演奏すると、何が生まれるのか。
そして、世界中の音楽が簡単に聴ける時代に、私たちは何を「自分たちの音楽」と呼ぶのか。
3 Mustaphas 3は、これらの問題を理論書として語ったわけではない。
彼らは演奏した。
ギターを弾いた。
ベースを弾いた。
アコーディオンを鳴らした。
パーカッションを叩いた。
フルートを吹いた。
そして、その上に別の国の旋律を重ねた。
その結果として、3 Mustaphas 3という奇妙な世界が生まれた。
Szegerely。
Crazy Loquat Club。
Mustapha一族。
そして「Forward in all directions!」。
架空の物語なのに、そこから聞こえてくる音楽は世界中の現実に根ざしている。
それが、このバンドの最大の魅力だった。
3 Mustaphas 3は、世界音楽を説明したバンドではない。世界がすでに音楽の中で混ざっていることを、演奏そのもので見せたバンドだった。
3 Mustaphas 3という「架空の未来」
3 Mustaphas 3の活動は、1990年代初頭に終わった。
しかし、彼らが残した発想は消えていない。
今日では、世界中の音楽へアクセスすることが簡単になった。
一人のミュージシャンが、アフリカのリズムを聴き、トルコの音楽を聴き、日本の民謡を聴き、ブラジルの音楽を聴き、その日のうちにそれらをサンプラーへ取り込むことさえできる。
3 Mustaphas 3の時代には、それほど簡単ではなかった。
だからこそ、彼らは人間の身体と楽器で世界を移動した。
一人のミュージシャンが複数の楽器を演奏する。
一つのバンドに複数の文化が入る。
一枚のアルバムに複数の言語が登場する。
一つの曲の中で複数の音楽史が交差する。
その結果、彼らは「世界音楽」という言葉が完全に定着する前に、世界音楽そのものを実践していた。
そして、その方法は今も新しい。
なぜなら世界が完全に均質化したわけではないからだ。
違いは残っている。
文化も残っている。
地域のリズムも残っている。
言語も残っている。
3 Mustaphas 3の方法は、その違いを消さずに一緒に鳴らす。
それは現在のグローバル音楽にとっても、非常に重要な考え方である。
3 Mustaphas 3は過去の「world music」バンドではなく、世界の音楽が混ざっていく未来を1980年代に先取りしていたバンドとして聴くことができる。
3 Mustaphas 3という音楽史上の位置
3 Mustaphas 3は、The Beatlesのような巨大なポップスターではない。
世界中のチャートを支配したバンドでもない。
しかし、音楽史ではこうしたグループが重要になることがある。
大衆音楽の中心に立つのではなく、これから普通になる方法を先に試しているからだ。
3 Mustaphas 3がやったことは、現在では珍しくない。
異なる国の音楽を組み合わせる。
複数の言語を使う。
伝統楽器と電気楽器を組み合わせる。
リズムを混ぜる。
リミックスする。
ライブとスタジオを行き来する。
しかし1980年代にそれを、バンド全体のアイデンティティとして徹底したグループは多くなかった。
さらに3 Mustaphas 3は、そこへ架空の一族という物語を加えた。
音楽とフィクション。
伝統と現代。
ロンドンと世界。
真面目な演奏とユーモア。
これらを同時に存在させた。
だから彼らは、単純な「world music band」ではない。
彼らは、世界音楽というカテゴリーが生まれた時代に、そのカテゴリーを内側から拡張したバンドだった。
3 Mustaphas 3の音楽史的な価値は、世界中の音楽を演奏したこと以上に、「世界中の音楽を一緒に演奏してもいい」という感覚を早い時期に実践したことにある。
まとめ――世界は最初から一つのバンドだった
3 Mustaphas 3は1982年にロンドンで活動を始めた。
彼らは架空のバルカンの町Szegerelyから来たMustapha一族という設定を作った。
しかし、その架空の一族が演奏した音楽は極めて現実的だった。
バルカン。
中東。
北アフリカ。
アフリカ。
地中海。
ヨーロッパ。
ラテンアメリカ。
アジア。
そして日本。
さまざまな地域の音楽が、ひとつのバンドの中で鳴った。
John Peelの番組にも出演した。
1987年には「Shopping」。
1989年には「Heart of Uncle」。
1990年には「Soup of the Century」。
1991年には「Friends, Fiends & Fronds」。
短い活動期間の中で、彼らは世界音楽というジャンルが広がっていく時代を駆け抜けた。
しかし、3 Mustaphas 3の最大の功績は、世界各地の音楽を集めたことではない。
「違う音楽は違うまま、一緒に鳴らすことができる」。
そのことを、彼らは架空のMustapha一族という奇妙な物語を使って実践した。
だから、彼らの音楽は今でも面白い。
ジャンルを決める前に聴ける。
国境を決める前に踊れる。
そして、どこの音楽なのか分からなくなった瞬間に、3 Mustaphas 3の本当の魅力が見えてくる。
彼らのスローガンは「Forward in all directions!」。
すべての方向へ前進する。
その言葉は、1980年代の奇妙なバンドのキャッチコピーに見える。
しかし現在から振り返ると、そこには現代音楽の姿がかなり正確に予告されていた。
世界中の音楽が同時に聴こえる時代。
ジャンルが混ざる時代。
国境より先に音楽が移動する時代。
3 Mustaphas 3は、その未来を待たなかった。
1982年のロンドンで、すでに始めていた。
3 Mustaphas 3は、世界を一つの音楽にしたバンドではない。世界中の違う音楽を、違うまま同じステージに立たせたバンドだった。
主要メンバー
| 実名 | Mustapha名 | 主な役割 |
|---|---|---|
| Ben Mandelson | Hijaz Mustapha | ギター、ブーズーキ、バイオリン、バンジョーなど |
| Lu Edmonds | Uncle Patrel Mustapha bin Mustapha | サズなど |
| Tim Fienburgh | Niaveti III | フルート、ネイ、カバル、アコーディオンなど |
| Nigel Watson | Houzam Mustapha | ドラム、パーカッション |
| Salah Dawson Miller | Isfa’ani Mustapha | パーカッション |
| Ray Cooper | Oussack Mustapha | チェロ |
| Colin Bass | Sabah Habas Mustapha | ベース、ボーカルなど |
| Kim Burton | Kemo Mustapha | キーボード、ピアノ、アコーディオンなど |
| Lavra Tima Daviz | Lavra Tima Daviz Mustapha | ボーカル |
3 Mustaphas 3は固定メンバーだけで成立したバンドではなく、時期によって複数のMustaphaが参加する集合体だった。
メンバー表を見るだけでも、3 Mustaphas 3が一つの楽器編成や一つの文化圏に閉じていなかったことが分かる。
主要アルバムと作品の流れ
1985 — Bam! Mustaphas Play Stereo
初期Mustapha世界を象徴する作品。
1986 — From the Balkans to Your Heart: The Radio Years
初期のJohn Peelセッションなど、ラジオ時代の活動を知ることができる作品。
1987 — Shopping
3 Mustaphas 3を代表する最初のフル・アルバム。
1989 — Heart of Uncle
バルカンを軸にしながら、さらに中東、地中海、アフリカなどへ広がった作品。
1990 — Soup of the Century
最後のスタジオ・アルバム。
日本語を含む複数言語、多様な地域の音楽を取り込んだ3 Mustaphas 3の代表作。
1991 — Friends, Fiends & Fronds
リミックス、ライブ、別録音、未発表音源などを収録した作品。
作品を順番に聴くと、3 Mustaphas 3が「バルカン音楽のバンド」から「世界中の音楽を一つのバンドで演奏するグループ」へ拡張していく過程が見えてくる。