【コラム】 熱帯の幻影 — ブラジル・サイケデリックの世界

Column Brazil Psychedelic Rock
【コラム】 熱帯の幻影 — ブラジル・サイケデリックの世界

序章:ブラジル・サイケデリックの夜明け

文:mmr|テーマ:トロピカリア運動から現代リバイバルまで、ブラジルが生んだサイケデリック音楽の系譜を辿る長

1960年代後半、リオデジャネイロとサンパウロでは、政治的緊張と文化的実験が奇妙に共存していた。軍事政権下で言論統制が進む一方、若者たちは英米のロックに刺激を受け、新しい音の自由を求めた。その最前線に立ったのがトロピカリア運動(Tropicália)である。

詩人トルカト・ネトやアーティストエリオ・オイチシカと並び、音楽面を牽引したのがカエターノ・ヴェローゾジルベルト・ジルだった。彼らは「ブラジル音楽の再定義」を掲げ、ボサノヴァ、サンバ、フォルクローレ、そしてロックを自在に融合していった。

“Tropicáliaは、我々の魂の中の熱帯だ。”
— Caetano Veloso, 1968

当時のスタジオでは、録音機材の制約を逆手に取った多重録音の手作業が繰り返された。リール式テープを物理的に切り貼りし、リバースエコーを生み出すためにテープを逆回転させるなど、サイケデリックな音響技術が誕生していった。


第1章:トロピカリアとサイケデリックの融合

1968年、コンピレーション・アルバム『Tropicália: ou Panis et Circencis』がリリースされる。これは、単なるアルバムではなく文化宣言だった。
ジルベルト・ジル、カエターノ・ヴェローゾ、オス・ムトゥンテス、ガル・コスタ、ナラ・レオンらが参加し、音と映像と詩が一体となったブラジル的アヴァンギャルドを提示した。

オス・ムトゥンテス(Os Mutantes)は特に革新的だった。セルジオ・ディアスのファズギターとリタ・リーの甘くも挑発的なヴォーカル、そして即興的なノイズ操作は、英国のピンク・フロイドやソフト・マシーンと並ぶ水準にあった。彼らの1970年作『A Divina Comédia ou Ando Meio Desligado』は、ブラジル音楽史における音響的転換点とされる。

“Os Mutantesはロックを食べ、ボサノヴァを飲み込み、未来を吐き出した。”
— Rolling Stone Brasil (1971)


第2章:音響革命 — ブラジル録音技術の革新

当時の録音スタジオ「Phonogram Studios(リオ)」では、欧米製のマルチトラック機器を入手できず、2トラック録音機を多重に重ねるという職人的手法が採られた。
この制限こそが、特有の“滲んだ”音像を生んだ要因である。特にオス・ムトゥンテスのエンジニアArnaldo Baptistaは、ファズ回路を独自に組み、ピッチを微妙に揺らすことで、南米特有の幻覚的浮遊感を再現した。

また、民族楽器と電子音の融合も重要な革新だった。カヴァキーニョやベルimbauといった土着の音を、Moogシンセやリバーステープと組み合わせることで、ブラジル音楽が“サイケデリックの熱帯圏”へと拡張されたのである。


第3章:アンダーグラウンドの熱 — 抑圧と創造の交錯

1970年代、トロピカリアの中心人物の多くは国外追放された。しかし、音楽の火は地下に潜り、ローカルシーンに息づいていた。サンパウロの学生バンドや、バイーア地方のローカルラジオでは、カセットテープ・ネットワークによる音の共有が続いた。

一方で、ミナス・ジェライス州を拠点とするClube da Esquina(エスクィーナ派)が登場する。ミルトン・ナシメントとロー・ボルゲスによる1972年のアルバム『Clube da Esquina』は、サイケデリックとフォーク、MPBの境界を溶かした名作であり、「静かなトリップ」を体現した。


第4章:現代の再生 — サイケデリック・リバイバルの時代

21世紀に入り、ブラジルの若手バンドたちは再び“熱帯の幻覚”を取り戻した。
BoogarinsCarne DoceGlue TripO Ternoなどが、英米のインディー・ロックと60年代の幻覚音響を架橋する。特にBoogarinsの2015年作『Manual』は、カセットとアナログミキサーを用いたローファイな空間録音が特徴で、Spotify世代における「DIYサイケデリア」を象徴する。

“ブラジルの空気のように、我々の音は湿っている。”
— Dinho Almeida(Boogarins)


第5章:ライブ評 — 熱帯のトランス体験

2018年、サンパウロのCine Joiaで行われたBoogarinsのライブは、トロピカリアの亡霊を現代に蘇らせた瞬間だった。
ステージ背後には流動する熱帯植物の映像、湿度を感じる照明、そして延々と続くギター・ドローン。観客は踊るのではなく、“浮遊する”ように音に浸っていた。

アンコールで演奏された「Lucifernandis」は、まるでOs Mutantesの再来のようなカオティックな音像を描き、観客の歓声が空気を震わせた。
音響スタッフはアナログテープ・エコーを使用し、ホール全体を幻覚的残響の海に変えた。


第6章:ブラジル・サイケデリック主要年表

flowchart TD A1967["1967:Tropicália運動の始動"] A1968a["1968:アルバム『Tropicália: ou Panis et Circencis』発表"] A1968b["1968:Os Mutantes デビュー"] A1969["1969:ヴェローゾとジル、ロンドン亡命"] A1972["1972:『Expresso 2222』発表"] A2006["2006:Os Mutantes再結成"] A2015["2015:Boogarins 『Manual...』世界的評価"] A1967 --> A1968a --> A1968b --> A1969 --> A1972 --> A2006 --> A2015

第7章:ディスコグラフィー — サイケデリック・ブラジルの航跡

アーティスト タイトル リンク
Os Mutantes Tropicália: ou Panis et Circencis 1968 Amazon
Caetano Veloso Caetano Veloso 1969 Amazon
Gilberto Gil Expresso 2222 1972 Amazon
Milton Nascimento & Lô Borges Clube da Esquina 1972 Amazon
Boogarins Manual 2015 Amazon
Glue Trip Glue Trip 2016 Amazon


終章:未来への幻視 — サイケデリアは続く

トロピカリアの精神は、半世紀を経た今も形を変え続けている。デジタル録音、AI生成音楽、そして映像芸術との融合を経て、ブラジルのアーティストたちは「新しい幻覚」を創造している。
それは、現実逃避ではなく、現実の再構築。
「熱帯の幻影」は、今なお世界のどこかで鳴り響いている。

“サイケデリアとは、心の中の現実を見つめることだ。”
— Gilberto Gil

Monumental Movement Records

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